「羊をめぐる冒険」(村上春樹)とか学生時代とか。

村上春樹羊をめぐる冒険を読み返す。朝と電車の中で読み、村上春樹を読んだときの常としてちょっと意識が現実から向こう側にずれて。学生時代の感覚を思い出させる。エアポケット的な不安定な感覚。
人生は、というか今の生活は、それほど確定的でもないし安定してもいない。学生時代の、いろいろな人と出会い、すれ違う感覚。組織には所属していたものの、そこに強く所属を求めるわけでもなかった僕は、そのようにしてすれ違っていった人達の方により強くシンパシーを感じたりもする。少し切ない気分になる。

そもそもは仕事が一段落して作業としての大変さは終わり。締切りに追われながら責任を背負っていた感覚がなくなり。これで本当に1〜2月頃からずっと続いていた大変さが一段落して、引越しを含めて心身ともに疲れが残っていることが改めて意識されて。体の中心に疲れが残っていて、それでも最初はうまく眠れず、徐々に小出しに眠る感じ。肩こりの症状が表に現れて。のどがなんとなく痛く、痰が出る感じ。こうして気づかないうちに疲れがたまり、こうして老けていくのかもしれないなんて思ったりするという。
まあそんなタイミングでもあって。そういうタイミングだからこそ小説、それも村上春樹を読もうと思うのだけれども。そんなことが重なって、精神状態がエアポケットのようなものに落ち込んだというか、ちょっと現実からずれた感じがある。張り詰めていないと、目的を設定して無理にでも走っていないと、義務感と自己有能感を感じていないと、すぐに間隙に落ち込みがちになる。
さてそうして、ではこのタイミングに新たな水脈を探すことにしようか。ここ2年ばかり、様々な雑事で自分の時間がとても限られていたわけだし。けれどもそれによって、精神的にはかなり好調。一般的には公私共に充実、ということではあるのだけれども。でも文章は残せていない。それは幸せなことではあるのだけれども。暇をもてあましているだけなのだろうか文章を書くということは。全く意味がないことかというとしかし、ごくたまに来るリアクション。6年とか7年とかをかけて、人に感動を与えることができているということは非常に嬉しいことであり、書いてよかったと思うことであり、何らかの意味はあったのだと思えることである。
相対化してみると、今は何もしていない。と言えるのかもしれない。会社の仕事をして、子育てをして。それはそれで生きていくうえでとても重要なことではあるのだけれども、昔の仲間と二度目以上に会ったときに、伝えられるものがあまりないとしたら。常に何か人に伝えられるものを仕入れていかなければ、と思わされる。
思えば学生時代は常にそんな刺激にさらされていた。仕事も義務もなく。すべきことも時間を取られることもなく。その中で、どれだけ敢えて自ら刺激を作り出せるのか、経験できるのかが試されていた。決してそれほど充実していたわけではなかったけれども。まあ今、ある程度すべきことがあって忙しく充実した感覚を知ると、というか忙しいほどに、いろいろなことをしようという気になる。
そして、やはり人生の大きなビジョンを持っていなければいけない。何を学んでいくのか。そして何を表現していくのか。常にテーマを持っていなければいけない。
以前、深く自分の中に沈み込んで考えながら文章を書いてから数年のうちに、そこで書いていたテーマ―代替する生き方とか、心の奥底とか、魂とか、向こう側のこととか、そういったことが世間的に明確になってきていて、…いやそのときから十分に明確だったのかもしれないけれども、「ガイアシンフォニー」もその頃には公開されていたわけだし。少なくとも自分の中では明確になってきていて、気づいている人の数も増えている昨今である。一度気づいたこと、既に知っていることを、言い方を変えて伝えようとするサービス精神は自分にはそれ程なくて、やはり自分が探求するために文章を書いているのだとすれば、文章を書けるタイミングというのは非常に限られてくる。ただ、それだけでは後に残ったものは難解で分かりづらくて、つまり自分の奥底から現れたカオスに過ぎないのだとすれば、改めてそれを分かりやすい形に置き換えるということも重要なことなのかもしれない。しかしその瞬間に切実さを失って、どこかで聞いたような話にすりかわるのだとすれば、自分がそれを書く意味はどこにもなくなるのかもしれなかった。意味があるとすれば、やはりそれはバランス感覚、ということでしかないかもしれない。ロハスとかスローライフとか環境問題とかは、深く追求していくとどうしても臭みがあるものだし。それを相対化してバランスを取りながら伝えるということ。…難しいのだけれども。

 久々

新緑の美しい季節となりました。

…いや、何が新緑の美しい季節なのか。
久しぶりなので緊張していた。さりげない書き出しを装おうとして却って失敗していた。
いずれにしても、久しぶりである。

その間、いろいろなことがあった。いろいろなことはあったが、別に過去書いている時だっていろいろなことはあったので、いろいろあったから書かなかったわけではない。
敢えて久々となった理由を挙げれば、自宅のパソコンのハードディスクがクラッシュしたとか、だけどしばらく放置しておいたとか、時間がなかったとか、仕事に差しさわりのあることが分かったとか、表現欲が薄らいできたとか、そもそも文章を書くのって面倒だとか、まあいろいろあるのだけれど、いずれにしても、やめたい時に自由にやめられるからこそ趣味なのだ。素晴らしい。報酬が発生しないっていいなあ。報酬が発生するにも関わらず自由にやめられたらもっといいなあ。

さて、その間に何をやっていたかというと、だからまあいろいろなことをやっていたのだが、例えばTOKYO No1 SOUL SETを聴いていた。90年代後半、僕にとっては(遅めの)青春真っ盛りの音楽である。その時代に「TRIPLE BARREL」(1995年4月)くらいは聴いていて、なんと今の時代を現した音と言葉であることよ、と感銘を受けてはいたものの、その後は殊更に聴くようなこともなく現在に至っていたのであるが、ふと思い立って「Jr.」(1996年8月)をアマゾンで買って聴いてみたところ、これがよくてまた一気にハマっていたのだった。特に「ヤード」と「Sunroom」のベースラインとメロディの素敵さと言ったら、心が震え、しばらくメロディが心を離れない様はまるで中学生時代に戻ったようであった。

ここでTOKYO No1 SOUL SETのことを知らないチビッコのために説明しておくと、「日本のヒップホップバンドである。1990年代初めに結成。1994年江戸屋レコード(BMG)よりメジャーデビュー。BIKKEの語りかけるようなラップが特徴である。」(wikipediaより)ということである。インターネットって便利だなあ。
ところでなぜ今ソウルセットなのかと言えば、よく考えてみたら、2月頃に小沢健二の新譜発売という情報が流れ、ただしインストだという情報が流れ、しかし語りが入るのではないかという憶測が流れ、そういえばいたな、と思い出したのがきっかけであった。
してみると、結局のところ僕に文章を書かせるきっかけを与える人は小沢健二村上春樹くらいか、ということにもなるのだった。

 カフェ

無理やり独りでカフェにいる。
時間がおしたので夕方だ。予定では、午後の数時間をカフェでのんびり。本を読みつつノートパソコンを広げ、久々にブログの更新を。と思っていたのだが、部屋を片付けたりしているうちに盛り上がってきて家を出るのが遅くなり、その後も買い物が長引いたりしている間に18時前になってしまった。
意地でコーヒーとシフォンケーキを頼む。そしてケーキを一気食い。コーヒーもすぐに飲み干す。そういえば昼飯を食っていなかった。おかわりをしようかとしばらく悩む。面倒だからやめる。…実にどうでもいい一日だ。

だけど、保坂和志の本に書いてあった。何もしていなくて長く感じる時間こそが<人生の素顔>ではないかと。動物だって空腹のとき以外は何もしていないのであって、充実しておらず暇をもてあましているような時間こそが本来ではないかと。
考えてみると、暇をもてあましたのは久しぶりだ。だが、常に忙しく充実しているのは不自然なのかもしれない。意識してバランスを取っていきたい。落差に耐えられるようあり続けたい。歳を取るとだんだんそのような落差に耐えるのが辛くなってくるのだけれども。
時間があったって別に急に自分と向き合ったりするわけではないし、哲学的な思索が始まるというわけでもない。むしろ、本当になにもなくて、本当に退屈だからこそバランスになるのだろう。
最近の無為な時間は、そのようにして自分の中で納得された。

またすぐに忙しい生活になるだろう。そう考えると、早くも暇な時間が恋しくなってくる。やれやれ。本当にないものねだりもはなはだしく、これからもこの2つの感情の間を揺れ動きながら生きていくのだろう。暇な時が来るのを楽しみに、次の忙しさをまた乗り切ろう…。
そうこうしているうちにカフェは夕方からバーに変わるらしく、照明は落とされて居心地の悪いことこの上ない。追い立てられるように家に帰ったのだった。

 閉塞感

頭の中に霧がかかっている。どうにもぼんやりしている。眠い。暇である。閉塞感が漂っている。いかんともしがたい。これはもう現実を離れるしかない。現実から離れ、遠くに行きたい。どこか遠いところに行ってしまおう。
例えばスーパー銭湯だ。手足をゆっくりと伸ばして風呂に入るとともに、サウナで汗を流すのだ。近所の銭湯には確かテレビもあったはずだ。今の時期ならナイターだ。野球を観ながらサウナだ。男のロマンだ。これぞ大人の男の振る舞いだ。
風呂から上がったら当然ビールだ。枝豆とイカゲソ揚げをつまみに、生ビールを飲み干すのだ。片手には文庫本。非常にオツだ。すさまじいまでの解放感だ。ストレスが解き放たれ心はどこまでも飛んでいくのだ。

…とても小市民だ。とてつもなく安上がりだ。この程度のことでここまで解放されてしまっていいものだろうか。今までの閉塞感は一体なんだったのか。この程度のことだったのか?
この程度のことだったのだ。元々たいして閉塞などしていないのだった。ちょっとした気晴らしが必要なのだった。しかも想像しただけで結構いい気晴らしになった。楽しい。実に楽しいではないか。マッサージも頼んでしまおうか。極楽である。湯ったり夢気分である。
ただし問題はその後の交通手段である。車だからなあ。このまえ検問やってたしなあ。びくびくしながら裏道で帰るか。それともビールをやめるか。風呂上りといえばフルーツ牛乳か?だがそんなものはイメージだけで実際に飲んだことはない。方向性が少々変わってしまう。やはりイカゲソ揚げは譲れない。だとすればビールである。法令順守するならば車は置いていくべきか。徒歩か。遠い。片道30分はかかる。すっかり湯冷めしてしまう。面倒だ。
だったら晩飯はラーメンで済ますか。そして家に帰ってスナック菓子とビールか。自宅でまでナイターを観る気はしない。野球はニュースで済ますことにして、最近めっきりつまらなくなったバラエティーでも横目で眺めるか。
つまらない。急に閉塞感が漂ってきた。解放されたはずの心に暗雲が立ちこめはじめてきた。要するに閉塞感の原因は面白いテレビ番組がないということか。それだけのことか。内Pと銭金さえあったら、日々は相当面白く過ぎていたのだろうか。相当にどうでもいい結論に至っている。

そんなわけで何本か映画を借りた。映画はそこそこの集中力を必要とする。向上心も少しばかり満たされる。無駄な時間にはならない。ちょうどいい。適度の集中力と適度の向上心。英語や法律や会計などの勉強をするほどの向上心は持ち合わせていない。あるいは向上心は持ち合わせていても実行力は持ち合わせていない。どちらにしても同じことだが、空いた時間を惜しんで勉強をしているようなら、今頃こんなところでこんな暮らしはしていない。ではどんなところでどんな暮らしをしているのかと言われるとそれは分からないが、少なくとも面白いテレビ番組がないといって悩むような暮らしはしていない。当たり前だ、勉強しているのだから。いずれにしてもどっちでもいいことこの上ない。
猿になろう。もうこうなれば猿になってしまおう。そして木の上で暮らすのだ。当面のテーマは焼畑農業反対だ。

そんなことを考えながら家に帰ると、映画を観る気力と時間はもう残っていなかった。バラエティー番組を横目にポテトチップスと発泡酒だ。最近の楽しみは「オーラの泉」くらいだ。まあでも何も残らない。発泡酒は半分くらい残して流しに捨てた。憂鬱さを噛みしめていると1時を過ぎた。もう寝よう。

青空と向こう側

自分自身に戻るとき。思考の切れ間にのぞくしんとした気配。雲の切れ間からのぞく、澄み渡るような青空。あまりにも深く、あまりにも青すぎて、眩暈がするような。普段気がつかない。気が遠くなるような深さ。青さ。どこまでも遠くまで続く色。落ちていきそうな。
何かを思い出しそうになる。昔は知っていた。向こう側のこと。まだ覚えていた。懐かしい、自分の場所。本当の場所。はるか遠く隔たってはいるけれど、いつでもすぐそこにある。一人ひとりが、つながっている。気がつけばいい。ただ心を切り替えればいいのだけれども、世の中にはいろいろなことがありすぎて、空間と時間はあまりにも確固としているように見えて―本当はいつだって全くあやふやで、いい加減なのはもうとっくにばれているのだけれど―その中に、頭を突っ込んで、何も見えないようにしてしまう。それは自ら望んだことなのだから、素に戻ってはいけないのかもしれないけれども。ルールはもう見えてきてしまっているのだから、知ってしまった人はいつまでも目をつぶっているわけにはいかないのかもしれない。
では、だったらどうすべきなのだろうか?今この場所から変えていくということ?光り輝くことによって、どんな場所にいても、どんな状態であっても、自らが光ることによって周囲によい影響を与えるということであってもいいのかもしれない。それだけが人に与えることのできることだという考え方はとても元気づけられる考えであって、少なくともおかしな罪の意識を感じる必要はなくなる。
そして自分の中のしんとした場所に思いを巡らす時。向こう側は近くなる。そして「向こう側」ではなかったことが分かる。薄皮に隔てられていたように。くるっとめくれる。それはすぐ近くにある。それはずっとすぐ近くにいた。一人ひとりが直接つながっている。こちらに準備ができればすぐに、いつ変化が起こってもおかしくはなかった。
どうしても恐れが強く、どうしてもなぜ自分だけが?と思ってしまう。ただ、他のみんなと一緒に、酔っ払っていたくても、陶酔してひとつになってしまいたくても、どうしてもこの「意識」は消えず、いつでも常に全てを見ていて、さっきから頭の中でしーんという音が鳴り響いている。そして外は雨。雨だれのノイズもまた、符合している。そして独り。

いつだって独り、世界の片隅で、こうして言葉を紡ぎだしている。過去から未来まで、垂直にこの瞬間は貫き通されている。永遠につながるこの一瞬に、言葉を紡ぎつづけている。何も変わらないのだとしても。すでに言い尽くされているのだとしても。どこかに何か個性の欠片くらいは残せないだろうか?「分かりにくくて退屈」以外の個性が・・・。
いつでもどこでも、言われていることは同じことで、とてもシンプルなことなのだから、分かってしまったらそこに留まっていることはできないのだ。シンプルすぎてそれ以上考えることはないのだから、先に進むしかないのだ。そして先とは具体的な行動だけなのだ。どんなにつまらないことであっても、世界の片隅で重荷を背負い、動かしていかなくてはいけない。誰も見ていなくても。自分が見ているのだから。「神」としての自分の目線が、この世界を構成しているのだから。そこには特別なドラマはなく、ただ日常しかないのだけれど、それでもその場所を守ることが、自分の果たすべき役割なのだ。

しかしすぐに限界を感じ、すぐに面倒になり、すぐに不安に襲われる、キャパシティのないこの心。攻めに回って、忙しさを面白がれば、世界が逆転するのは知っているのだけれど。手を放しきれないということか?時間はいくらでもあって、うまいこと回るようにできていて、恐れて力をセーブすると、時間は余って余計に鬱になるのだ。
いよいよ雨は降り、部屋の中には独り。課題は次々と降りかかり、楽になることはないのだけれども、楽になる必要もない。楽なことは楽しいことではなく、退屈と怠惰だから。それを分かった上で、向こうから課題がやってくる前にこちらで課題を設定してそれに向かったほうが、前向きではあるのかもしれない。そうすると大切なのは、いかに瞬間瞬間で負け続けないか、ということであって、いかに張り詰めていられるか、いかに継続できるかが重要なことなのであるけれども。倒れこむことを前提としたダッシュはできても、常に前のめりに走り続けるというのは、なかなか。今までできたことはなく、もって2ヶ月…いやもってない。自分との戦いを感じつつ、たまに負ける。走り続ける中で、「神」はより近くに感じることができる。体温は上がり、光に包まれる。そのことは分かっているのだけれど、「冷静と情熱の間」に、どうしてもいることになる。

同じことを繰り返している。10年間の間。そう、もうすぐで10年。1996年3月、インドの夜、3月21日。あれから10年で、いろいろなことが分かった。のだと思う。様々な言葉と出会った。インドでの体験がなかったら、それらの言葉は目に触れることもなかっただろうと思う。僕はまだ世界に意味を見出せずにいただろうか?世界を斜めに見続け、全てを見切ったような気になり、もしかして、もう何かをあきらめてしまっていただろうか?3月は、重要な月だ。

 「ハイデガー=存在神秘の哲学」(古東哲明)

シンクロニシティが炸裂した。
最近ここで書いてきたことと、以前別のサイトに書いてきたことと、リンクし、共鳴しあっていた。
きっと、10年前に読んだら、ピンとこなかっただろう。
5年前に読んだら、目からウロコと涙をボロボロとこぼしながら感動し、その日の夜行列車で広島に向かったことだろう。(筆者は現在広島大学教授である。)
今読んだので、「なるほどなあ」とか「やっぱりなあ」とか「そうだよなあ」などと共感しつつ、自分と興味、キーワードが似ているところに共時性を感じ、静かな興奮と感動を覚えるに留まった。
「俺の考えてたことはハイデガーだったか」と思うが、ハイデガーそのものと言うよりも古東氏への共感の方が強いのかもしれない。割と自由に書かれている本でもあるし。
本当に、私は哲学的志向だけはあるものの、哲学の素養がないために、知ってる人にとっては「あああの問題ね。」という問題を、独りで同じようなところで考え続けているのかもしれないとつくづく思うが、良く考えたら別に、「考え続けている」わけでもなかったし、それ以上に、哲学書を本格的に読むだけの知力も根気も時間もないのだったので、仕方がない。


さて、どんなところが響きあったと思ったのか。
・「存在への吐き気」(サルトル)、「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ)という考えがありつつも、それでも「存在」は至高の味わいであり、神秘である。
・「存在」を感じるためのものとして、「存在忘却の根本体験」がある。
・『ぼくたちがほんとうに存在するためには、たえずこの夜の根源力の中へ入り込んで、脱けていかなければ』ならない。
・「現存在(生)が自己自身に対して目覚めていること」が「実存」である。
・『生それ自体のもとに滞留すること』、『生が生それ自体へ至ること』、「時を時として生きる』こと。
・『眠らずに目を覚ましていなさい』。
・世界は劇場である。シェイクスピアプラトンやゴフマンが言ったように、「マトリックス」や「トゥルーマンショー」が描いているように、世界は劇場で、誰もが役と不可分になって世界演劇を演じている。
・『世界とは日常的現存在が演じている<演劇>である』。
・『ぼくがぼくの現存在(生)の<最後>にそうであるだろう存在。それは、実はぼくがどの瞬間にもそうでありうる存在なのだ』
・「銀河鉄道の夜」(宮澤賢治
・「「時が生である」という「モモ」(M・エンデ)の時論」
・『存在と無は同一』
・『存在はその本質において根拠である。だから存在は、それを根拠づけるようなさらなる別の根拠を持つことはありえない。・・・・存在は無底である。』
・「エントロピー(冷却・解体・消滅=非材化)と、それに抗うネゲントロピー(熱化・集結・組織化=在化)との同時進行現象」、「死と生との回互現象」が「火」であり、それが存在である。
・『生成―つまり創造にして消滅』
・「存在とは、在化と非在化との間に裂開する相互闘争」
・時間は過去から未来へと続くものではなく、瞬間の中に、死と生とのベクトルが在る。時間は回転する車輪そのものであり、「今ここ」にしかない。普通時間と思われているものは車輪の軌跡にすぎない。
・『この上ない真剣さで、この世界の瞬間をとらえ、それを言葉にすることです。・・・無の中の底なき深みに、在ることの豊饒さが隠されているという、決定的な経験がめざめます』
・「現在を見てしまったものは、すべてを見てしまったのである」(「自省録」マルクス・アウレリウス
・子供の頃は今の中に充実した時間があった。その後、人はいつでも先を見て生きるようになっている。良い成績を。良い学校へ。良い会社へ。そして、テレビを見て、携帯を持ち、インターネットにアクセスする。それは、ニヒリズムである。
・そして、最後に「エルアイクニス」(存在神秘に撃たれる体験)がある。


・・・などと、引用しているうちに忙しくなってきたので途中でやめるけれども、きりがないし、そんな訳で、強く共時性を感じたのである。
なお、「 」はこの本からの引用、『 』はハイデガーの言葉である。
この人達も、確かにある「体験」をしている。
そして、こういう本があるのならば、私がこんな所で文章を書いている必要もないのであった。


更に、その流れで「魂のロゴス」(菅原浩)を再読すると、これもまた哲学と仏教とキリスト教と神秘体験と神話と芸術とが融合した美しい本で、読むほどに心が洗われ、過剰に沸き上がった言葉も落ち着いてくるのだった。
そのようにして、ここに書いてきたようなこともなんとなく一周して落ち着き所を見つけ、約1ヵ月半のブログも、なんとなく一段落するのかもしれなかった。

「デビルマン」(永井豪)と「寄生獣」(岩明均)

さて、たまたま本棚に並んでいた「デビルマン」と「寄生獣」を読み返す。
今まで意識しなかったけれど、同じようなことをテーマにしていた。
「人間の『悪』としての存在」。
地球はもともと「悪魔」の住む場所だった。後から現れて地球を汚し、弱いくせに凶暴で、不安から互いに殺し合う人間などは、滅びるべきではないか?(デビルマン
人間は地球にとって増えすぎた。天敵が必要ではないのか?(寄生獣
それは一つのバランスだ。


しかし、寄生獣の主人公も、デビルマンも、人間とその敵との中間に一人立ち、戦う。誰にも理解されず、孤独に。
考えてみれば、ウルトラマンだって異星人だったし、仮面ライダーだって他の人とは違うという傷を持っていた。
ヒーローというものはいつでも、孤独の中にいて、それでも戦い続けるものなのだ。先日書いた「スパイダーマン」や「ピンポン」に限らず。
既存の価値観、大多数が信じる価値観をそのまま受け入れるわけではなく、それらを相対化し、その上で選択し、そして自らの信じる価値のために、戦うものなのだった。


デビルマン」というのは本当に天才の作品で、最終巻で、「飛鳥了」が、自分の正体に気づく場面を最初に読んだ時などは、たしか中学生だったのだが、衝撃を受けた。
それはいつか見た悪夢のようだった。寄って立つ基盤がふいに崩れ落ちる、圧倒的な不安の感覚。
自分の人間としての記憶は、全て作られたものだった。人間を滅ぼすために、自ら記憶を消し、嘘の記憶を持って、人間として暮らしていたのだ。
だから、自分が心の中で恐れることが全て現実化していたのだ。だから、自分の内面と現実がこれほどまでにリンクしていたのだ。おかしいとは思わなかったのか?まるで悪夢のようだとは思わなかったのか?
しかしそれは、すでにどこかで知っているような感覚だった。


役割を持った者は、ある時気づく。他とは違うこと。役割は、バランスを取ることにあった。だからずっと孤独で、異端だった。
記憶は作られていた。偽の記憶を注ぎこまれたアンドロイドのように。「ブレードランナー」のような悪夢。しかし、手がかりはいつでも示されていた。だから、いつか気づいてしまう。気づきたくなくても。いつまでも知らないフリを続けることはできない。
そして、戦わなくてはいけない。捨て石にならなくてはいけない。
気づくこと―。手がかりはいつだって示されている。気づかないようにそっと。いろいろと形を変えて、しかし届くべき人間には届くように。
偶然などは在り得ない。情報は、与えられている。「マトリクス」のように。「トゥルーマンショー」のように。偶然のふりをして、しかし、明らかに示されている。だから、気づいてしまったなら、立ちあがらなくてはいけない。周りは全て敵だとしても。
だから、知っている人を、探すこと。アンテナを張り巡らし、ネットワークを張り巡らせること―。


・・・そんなメッセージを持った作品に惹かれる。
他には、「地球(テラ)へ」(竹宮惠子)とか。
「僕の地球を守って」(日渡早紀)とか。
「魔界水滸伝」(栗本薫)とか。
「タッチ」(あだちみつる)とか。
三年寝太郎」(作者不詳)とかね。