青空と向こう側

自分自身に戻るとき。思考の切れ間にのぞくしんとした気配。雲の切れ間からのぞく、澄み渡るような青空。あまりにも深く、あまりにも青すぎて、眩暈がするような。普段気がつかない。気が遠くなるような深さ。青さ。どこまでも遠くまで続く色。落ちていきそうな。
何かを思い出しそうになる。昔は知っていた。向こう側のこと。まだ覚えていた。懐かしい、自分の場所。本当の場所。はるか遠く隔たってはいるけれど、いつでもすぐそこにある。一人ひとりが、つながっている。気がつけばいい。ただ心を切り替えればいいのだけれども、世の中にはいろいろなことがありすぎて、空間と時間はあまりにも確固としているように見えて―本当はいつだって全くあやふやで、いい加減なのはもうとっくにばれているのだけれど―その中に、頭を突っ込んで、何も見えないようにしてしまう。それは自ら望んだことなのだから、素に戻ってはいけないのかもしれないけれども。ルールはもう見えてきてしまっているのだから、知ってしまった人はいつまでも目をつぶっているわけにはいかないのかもしれない。
では、だったらどうすべきなのだろうか?今この場所から変えていくということ?光り輝くことによって、どんな場所にいても、どんな状態であっても、自らが光ることによって周囲によい影響を与えるということであってもいいのかもしれない。それだけが人に与えることのできることだという考え方はとても元気づけられる考えであって、少なくともおかしな罪の意識を感じる必要はなくなる。
そして自分の中のしんとした場所に思いを巡らす時。向こう側は近くなる。そして「向こう側」ではなかったことが分かる。薄皮に隔てられていたように。くるっとめくれる。それはすぐ近くにある。それはずっとすぐ近くにいた。一人ひとりが直接つながっている。こちらに準備ができればすぐに、いつ変化が起こってもおかしくはなかった。
どうしても恐れが強く、どうしてもなぜ自分だけが?と思ってしまう。ただ、他のみんなと一緒に、酔っ払っていたくても、陶酔してひとつになってしまいたくても、どうしてもこの「意識」は消えず、いつでも常に全てを見ていて、さっきから頭の中でしーんという音が鳴り響いている。そして外は雨。雨だれのノイズもまた、符合している。そして独り。

いつだって独り、世界の片隅で、こうして言葉を紡ぎだしている。過去から未来まで、垂直にこの瞬間は貫き通されている。永遠につながるこの一瞬に、言葉を紡ぎつづけている。何も変わらないのだとしても。すでに言い尽くされているのだとしても。どこかに何か個性の欠片くらいは残せないだろうか?「分かりにくくて退屈」以外の個性が・・・。
いつでもどこでも、言われていることは同じことで、とてもシンプルなことなのだから、分かってしまったらそこに留まっていることはできないのだ。シンプルすぎてそれ以上考えることはないのだから、先に進むしかないのだ。そして先とは具体的な行動だけなのだ。どんなにつまらないことであっても、世界の片隅で重荷を背負い、動かしていかなくてはいけない。誰も見ていなくても。自分が見ているのだから。「神」としての自分の目線が、この世界を構成しているのだから。そこには特別なドラマはなく、ただ日常しかないのだけれど、それでもその場所を守ることが、自分の果たすべき役割なのだ。

しかしすぐに限界を感じ、すぐに面倒になり、すぐに不安に襲われる、キャパシティのないこの心。攻めに回って、忙しさを面白がれば、世界が逆転するのは知っているのだけれど。手を放しきれないということか?時間はいくらでもあって、うまいこと回るようにできていて、恐れて力をセーブすると、時間は余って余計に鬱になるのだ。
いよいよ雨は降り、部屋の中には独り。課題は次々と降りかかり、楽になることはないのだけれども、楽になる必要もない。楽なことは楽しいことではなく、退屈と怠惰だから。それを分かった上で、向こうから課題がやってくる前にこちらで課題を設定してそれに向かったほうが、前向きではあるのかもしれない。そうすると大切なのは、いかに瞬間瞬間で負け続けないか、ということであって、いかに張り詰めていられるか、いかに継続できるかが重要なことなのであるけれども。倒れこむことを前提としたダッシュはできても、常に前のめりに走り続けるというのは、なかなか。今までできたことはなく、もって2ヶ月…いやもってない。自分との戦いを感じつつ、たまに負ける。走り続ける中で、「神」はより近くに感じることができる。体温は上がり、光に包まれる。そのことは分かっているのだけれど、「冷静と情熱の間」に、どうしてもいることになる。

同じことを繰り返している。10年間の間。そう、もうすぐで10年。1996年3月、インドの夜、3月21日。あれから10年で、いろいろなことが分かった。のだと思う。様々な言葉と出会った。インドでの体験がなかったら、それらの言葉は目に触れることもなかっただろうと思う。僕はまだ世界に意味を見出せずにいただろうか?世界を斜めに見続け、全てを見切ったような気になり、もしかして、もう何かをあきらめてしまっていただろうか?3月は、重要な月だ。