閉塞感

頭の中に霧がかかっている。どうにもぼんやりしている。眠い。暇である。閉塞感が漂っている。いかんともしがたい。これはもう現実を離れるしかない。現実から離れ、遠くに行きたい。どこか遠いところに行ってしまおう。
例えばスーパー銭湯だ。手足をゆっくりと伸ばして風呂に入るとともに、サウナで汗を流すのだ。近所の銭湯には確かテレビもあったはずだ。今の時期ならナイターだ。野球を観ながらサウナだ。男のロマンだ。これぞ大人の男の振る舞いだ。
風呂から上がったら当然ビールだ。枝豆とイカゲソ揚げをつまみに、生ビールを飲み干すのだ。片手には文庫本。非常にオツだ。すさまじいまでの解放感だ。ストレスが解き放たれ心はどこまでも飛んでいくのだ。

…とても小市民だ。とてつもなく安上がりだ。この程度のことでここまで解放されてしまっていいものだろうか。今までの閉塞感は一体なんだったのか。この程度のことだったのか?
この程度のことだったのだ。元々たいして閉塞などしていないのだった。ちょっとした気晴らしが必要なのだった。しかも想像しただけで結構いい気晴らしになった。楽しい。実に楽しいではないか。マッサージも頼んでしまおうか。極楽である。湯ったり夢気分である。
ただし問題はその後の交通手段である。車だからなあ。このまえ検問やってたしなあ。びくびくしながら裏道で帰るか。それともビールをやめるか。風呂上りといえばフルーツ牛乳か?だがそんなものはイメージだけで実際に飲んだことはない。方向性が少々変わってしまう。やはりイカゲソ揚げは譲れない。だとすればビールである。法令順守するならば車は置いていくべきか。徒歩か。遠い。片道30分はかかる。すっかり湯冷めしてしまう。面倒だ。
だったら晩飯はラーメンで済ますか。そして家に帰ってスナック菓子とビールか。自宅でまでナイターを観る気はしない。野球はニュースで済ますことにして、最近めっきりつまらなくなったバラエティーでも横目で眺めるか。
つまらない。急に閉塞感が漂ってきた。解放されたはずの心に暗雲が立ちこめはじめてきた。要するに閉塞感の原因は面白いテレビ番組がないということか。それだけのことか。内Pと銭金さえあったら、日々は相当面白く過ぎていたのだろうか。相当にどうでもいい結論に至っている。

そんなわけで何本か映画を借りた。映画はそこそこの集中力を必要とする。向上心も少しばかり満たされる。無駄な時間にはならない。ちょうどいい。適度の集中力と適度の向上心。英語や法律や会計などの勉強をするほどの向上心は持ち合わせていない。あるいは向上心は持ち合わせていても実行力は持ち合わせていない。どちらにしても同じことだが、空いた時間を惜しんで勉強をしているようなら、今頃こんなところでこんな暮らしはしていない。ではどんなところでどんな暮らしをしているのかと言われるとそれは分からないが、少なくとも面白いテレビ番組がないといって悩むような暮らしはしていない。当たり前だ、勉強しているのだから。いずれにしてもどっちでもいいことこの上ない。
猿になろう。もうこうなれば猿になってしまおう。そして木の上で暮らすのだ。当面のテーマは焼畑農業反対だ。

そんなことを考えながら家に帰ると、映画を観る気力と時間はもう残っていなかった。バラエティー番組を横目にポテトチップスと発泡酒だ。最近の楽しみは「オーラの泉」くらいだ。まあでも何も残らない。発泡酒は半分くらい残して流しに捨てた。憂鬱さを噛みしめていると1時を過ぎた。もう寝よう。