「1Q84」(村上春樹)

ここ数年、読む小説は村上春樹のものだけだ。そして、こうして久々に文章を書かせるのも村上春樹だけだ。


パターンとテーマは決まっている。
孤独な主人公。彼はいつも些細な何かによってこの世界につながっている。しかし彼が立つのはいつもこの世界の狭間のような場所で、だから周りではすぐに大切な人が「向こう側」に行ってしまう。「失われて」しまう。
そこで、主人公は何らかの通路を通って(エレベータや井戸や深い森や)向こう側に行き、「悪」と戦い、大切なものを奪い返す。(あるいは失敗して喪失感に苛まれる。)悪とは絶対的な暴力であり、戦争のにおいを撒き散らすものであり、父的なものである。大切なものとは、自分と深いところで通じ合っている誰かであり、ヒロインであり、母的なものである。つまり、異世界を冒険して父を倒し、母を得る。という神話的、心理学的な個人の成長という物語の王道を、パターンを変えてひたすら繰り返しているわけだ。
しかし、そんなパターンに全く飽きを感じさせず、そもそも考えてみなければそんなパターンを意識させず、ストーリーに引き込んでいくのは見事な文章力によるものであり、「向こう側」の世界の描写の見事さ。比喩の素敵さ。物語に引き込む構成のうまさ。つい土日で読んでしまった(先週の)。

【以下ネタバレあり】
この物語で、主人公「天吾」は、小説家志望の予備校の数学教師である。今までの主人公たちと比べると普通の人ではあるが、やはり傷を抱えている。そして孤独である。彼は数学の論理的で完成された世界と、小説の文章の世界につながることで、バランスを保っている。もう一人の主人公の「青豆」という女性は、肉体の感覚と行きずりの男漁りによってバランスを保っている。彼らの周りの主要な登場人物たちも皆、傷を抱えている。それは家族にかかわるものだ。彼らは皆、両親に捨てられた、あるいは理解され愛されなかったという記憶を持つ。
この物語が今までと違って美しいのは、全く異なった場所で異なったことをしている主人公2人の人生が、過去のある一点で交差していたことが分かること。そして、その瞬間に相手を心の底から求めたことが奥深いところで自分を支えていたことに、それぞれが気づくところにある。これはなかなかに劇的で、感動的である。人はこのような他人との心の触れ合いがなければ生きていけない。しかし触れ合うのは一瞬であってもいい。そしてその一瞬さえあれば、人はこの世界になんとかつなぎとめられる。
主人公たちがこのことに気づいたのは、それが「1Q84」という世界だからだ。天吾は、「ふかえり」という「向こう側」の世界を知覚する少女の書いた(語った)物語を文章にすることを通して、世界を少し変えてしまった。それにより、青豆が引き寄せられ、二人の人生が交錯することになる。
また、自分を支えるものに気づいたからこそ、天吾は「猫の町」のような非現実的な場所、房総の老人ホームで父に会い、彼を許すことができた。これも過去にはない美しいシーンだ。(村上春樹自身の父が亡くなったことと無関係ではないのだろう。)しかし、ここで和解を果たすのは偽者の父だ。和解の場で、彼が実の父でないことが明確になる。そして真の父が誰なのかは語られず、実の母も幻のままだ。それは、この物語が未完であることを思わせる。

今回、直接的に「悪」と戦うのは青豆である。格式あるホテルという「向こう側」の世界の(ホテルの描写の見事な「異世界」感。)、カーテンを閉めた部屋という「闇の世界」で、青豆は「悪」と対決する。閉ざされて変質した凶悪な宗教集団のリーダー。しかし、対決の場において、彼は自ら死を求めていることが分かる。そして、彼が絶対的な悪ではなく、傀儡に過ぎないことが分かる。これは「ねじまき鳥」や「カフカ」のような絶対的な悪との戦いではない。真の敵は「リトル・ピープル」と呼ばれる「向こう側」の存在と、個人を超えて力を持つシステムだ。宗教集団のリーダーは自らの娘である「ふかえり」を通して、その存在の意思をこの世界に実現させたに過ぎない。そして彼は、人間にとっての悪とは身の丈を超えることだと言う。ありのままの自分を超えようとするところに無理が生じ、影が生じると。彼は世界のバランスについて語り、そのバランスを崩した自分について語っている。それは人間についてのとてもまっとうな教訓だ。彼は相対的な悪なのだ。そしてあっけなく死んでいく。だから、これもまた予告編のようなものだ。向こう側に属する絶対的な悪。悪ですらないかもしれない絶対的な存在。しかし物語の中でそれは邪悪なものを含み、そして主人公はそれと戦わなくてはいけない。
本当の戦いは、始まっていない。だから、この物語はまだ続く。(続いてほしい。)

【以下、勝手な予測】
天吾は、ふかえりの感じたものを、文章を通してこの世界に伝える役割を果たした。それは宗教集団のリーダーの果たした役割と同じものだ。天吾はリーダーの後を引継ぎ、乗り越えなくてはいけない。それは、リーダーが天吾の「父」であることを示していないか。主人公は真の父と戦い、乗り越えなくてはいけない。母は発見されるのか?あるいは発見されないままかもしれない。しかし、そうだとするとふかえりとはすでに近親相姦の関係で、そうすれば「カフカ」と同じ。天吾はすでに母を間接的に得ている。
伏線はまだ残っている。
青豆は、天吾の姿を見かけたというのに、なぜ死ななくてはいけなかったのか?彼女は、死ぬことに失敗しなければいけない。あるいは、天吾が空気さなぎの中に見た姿のように、生まれ変わらなくてはいけない。そして再会し、一緒に悪と戦わなくてはいけない。
小松氏や人妻はどこに消えたのか?リトル・ピープルによって、主人公を孤立させるために遠ざけられた、としても、そのまま放っておかれるにしては重要なキャラクターすぎる。彼らは取り戻されなくてはいけない。

カフカ」を読んだあと、物語が(村上春樹が)あまりに深いところまで行き、絶対的な悪の存在の近いところまで迫り、破綻なく戻ってきていることに驚き、そしてこんな長編は二度と書けないのではないかと思った。実際にその後は軽い短編や翻訳ばかりで、久しぶりの長編になるわけだが、しかしよくもう一度向こう側へのダイブができたものだと思う。これも走り込みを欠かさず、心身を強く健全に保っているおかげだろう。体力と精神の健全さがなければ、深いところに行って、破綻することなく、戻ってくることはできない。どれか1つか2つならできるかもしれないけれど。
それにしても、この薄い膜を一枚隔てたすぐ向こう側に存在を感じさせる異世界のリアリティ。もうダンテかスウェーデンボルグかといった感じで、見てきたのか?ということだ。まあどっちかというと「地獄」とか「煉獄」とかいったものかもしれないけれども、そんなとんでもなく危険な世界のことをぴりぴりするくらいリアルに描き、エンターテイメントとして、とんでもなく売れているということがもう、とんでもないことだ。

…とベタ誉めするのはこの物語に続きがあり、更なる冒険とカタルシスがあることを前提にしているわけだけれども。2冊で終わったら、まあそれはそれなりに完結しているけれども中途半端でカフカやねじまき鳥ほど深くまで達していないね、という感想に変わるのだけれども。