「ハイデガー=存在神秘の哲学」(古東哲明)

シンクロニシティが炸裂した。
最近ここで書いてきたことと、以前別のサイトに書いてきたことと、リンクし、共鳴しあっていた。
きっと、10年前に読んだら、ピンとこなかっただろう。
5年前に読んだら、目からウロコと涙をボロボロとこぼしながら感動し、その日の夜行列車で広島に向かったことだろう。(筆者は現在広島大学教授である。)
今読んだので、「なるほどなあ」とか「やっぱりなあ」とか「そうだよなあ」などと共感しつつ、自分と興味、キーワードが似ているところに共時性を感じ、静かな興奮と感動を覚えるに留まった。
「俺の考えてたことはハイデガーだったか」と思うが、ハイデガーそのものと言うよりも古東氏への共感の方が強いのかもしれない。割と自由に書かれている本でもあるし。
本当に、私は哲学的志向だけはあるものの、哲学の素養がないために、知ってる人にとっては「あああの問題ね。」という問題を、独りで同じようなところで考え続けているのかもしれないとつくづく思うが、良く考えたら別に、「考え続けている」わけでもなかったし、それ以上に、哲学書を本格的に読むだけの知力も根気も時間もないのだったので、仕方がない。


さて、どんなところが響きあったと思ったのか。
・「存在への吐き気」(サルトル)、「存在の耐えられない軽さ」(ミラン・クンデラ)という考えがありつつも、それでも「存在」は至高の味わいであり、神秘である。
・「存在」を感じるためのものとして、「存在忘却の根本体験」がある。
・『ぼくたちがほんとうに存在するためには、たえずこの夜の根源力の中へ入り込んで、脱けていかなければ』ならない。
・「現存在(生)が自己自身に対して目覚めていること」が「実存」である。
・『生それ自体のもとに滞留すること』、『生が生それ自体へ至ること』、「時を時として生きる』こと。
・『眠らずに目を覚ましていなさい』。
・世界は劇場である。シェイクスピアプラトンやゴフマンが言ったように、「マトリックス」や「トゥルーマンショー」が描いているように、世界は劇場で、誰もが役と不可分になって世界演劇を演じている。
・『世界とは日常的現存在が演じている<演劇>である』。
・『ぼくがぼくの現存在(生)の<最後>にそうであるだろう存在。それは、実はぼくがどの瞬間にもそうでありうる存在なのだ』
・「銀河鉄道の夜」(宮澤賢治
・「「時が生である」という「モモ」(M・エンデ)の時論」
・『存在と無は同一』
・『存在はその本質において根拠である。だから存在は、それを根拠づけるようなさらなる別の根拠を持つことはありえない。・・・・存在は無底である。』
・「エントロピー(冷却・解体・消滅=非材化)と、それに抗うネゲントロピー(熱化・集結・組織化=在化)との同時進行現象」、「死と生との回互現象」が「火」であり、それが存在である。
・『生成―つまり創造にして消滅』
・「存在とは、在化と非在化との間に裂開する相互闘争」
・時間は過去から未来へと続くものではなく、瞬間の中に、死と生とのベクトルが在る。時間は回転する車輪そのものであり、「今ここ」にしかない。普通時間と思われているものは車輪の軌跡にすぎない。
・『この上ない真剣さで、この世界の瞬間をとらえ、それを言葉にすることです。・・・無の中の底なき深みに、在ることの豊饒さが隠されているという、決定的な経験がめざめます』
・「現在を見てしまったものは、すべてを見てしまったのである」(「自省録」マルクス・アウレリウス
・子供の頃は今の中に充実した時間があった。その後、人はいつでも先を見て生きるようになっている。良い成績を。良い学校へ。良い会社へ。そして、テレビを見て、携帯を持ち、インターネットにアクセスする。それは、ニヒリズムである。
・そして、最後に「エルアイクニス」(存在神秘に撃たれる体験)がある。


・・・などと、引用しているうちに忙しくなってきたので途中でやめるけれども、きりがないし、そんな訳で、強く共時性を感じたのである。
なお、「 」はこの本からの引用、『 』はハイデガーの言葉である。
この人達も、確かにある「体験」をしている。
そして、こういう本があるのならば、私がこんな所で文章を書いている必要もないのであった。


更に、その流れで「魂のロゴス」(菅原浩)を再読すると、これもまた哲学と仏教とキリスト教と神秘体験と神話と芸術とが融合した美しい本で、読むほどに心が洗われ、過剰に沸き上がった言葉も落ち着いてくるのだった。
そのようにして、ここに書いてきたようなこともなんとなく一周して落ち着き所を見つけ、約1ヵ月半のブログも、なんとなく一段落するのかもしれなかった。