「デビルマン」(永井豪)と「寄生獣」(岩明均)

さて、たまたま本棚に並んでいた「デビルマン」と「寄生獣」を読み返す。
今まで意識しなかったけれど、同じようなことをテーマにしていた。
「人間の『悪』としての存在」。
地球はもともと「悪魔」の住む場所だった。後から現れて地球を汚し、弱いくせに凶暴で、不安から互いに殺し合う人間などは、滅びるべきではないか?(デビルマン
人間は地球にとって増えすぎた。天敵が必要ではないのか?(寄生獣
それは一つのバランスだ。


しかし、寄生獣の主人公も、デビルマンも、人間とその敵との中間に一人立ち、戦う。誰にも理解されず、孤独に。
考えてみれば、ウルトラマンだって異星人だったし、仮面ライダーだって他の人とは違うという傷を持っていた。
ヒーローというものはいつでも、孤独の中にいて、それでも戦い続けるものなのだ。先日書いた「スパイダーマン」や「ピンポン」に限らず。
既存の価値観、大多数が信じる価値観をそのまま受け入れるわけではなく、それらを相対化し、その上で選択し、そして自らの信じる価値のために、戦うものなのだった。


デビルマン」というのは本当に天才の作品で、最終巻で、「飛鳥了」が、自分の正体に気づく場面を最初に読んだ時などは、たしか中学生だったのだが、衝撃を受けた。
それはいつか見た悪夢のようだった。寄って立つ基盤がふいに崩れ落ちる、圧倒的な不安の感覚。
自分の人間としての記憶は、全て作られたものだった。人間を滅ぼすために、自ら記憶を消し、嘘の記憶を持って、人間として暮らしていたのだ。
だから、自分が心の中で恐れることが全て現実化していたのだ。だから、自分の内面と現実がこれほどまでにリンクしていたのだ。おかしいとは思わなかったのか?まるで悪夢のようだとは思わなかったのか?
しかしそれは、すでにどこかで知っているような感覚だった。


役割を持った者は、ある時気づく。他とは違うこと。役割は、バランスを取ることにあった。だからずっと孤独で、異端だった。
記憶は作られていた。偽の記憶を注ぎこまれたアンドロイドのように。「ブレードランナー」のような悪夢。しかし、手がかりはいつでも示されていた。だから、いつか気づいてしまう。気づきたくなくても。いつまでも知らないフリを続けることはできない。
そして、戦わなくてはいけない。捨て石にならなくてはいけない。
気づくこと―。手がかりはいつだって示されている。気づかないようにそっと。いろいろと形を変えて、しかし届くべき人間には届くように。
偶然などは在り得ない。情報は、与えられている。「マトリクス」のように。「トゥルーマンショー」のように。偶然のふりをして、しかし、明らかに示されている。だから、気づいてしまったなら、立ちあがらなくてはいけない。周りは全て敵だとしても。
だから、知っている人を、探すこと。アンテナを張り巡らし、ネットワークを張り巡らせること―。


・・・そんなメッセージを持った作品に惹かれる。
他には、「地球(テラ)へ」(竹宮惠子)とか。
「僕の地球を守って」(日渡早紀)とか。
「魔界水滸伝」(栗本薫)とか。
「タッチ」(あだちみつる)とか。
三年寝太郎」(作者不詳)とかね。