補足

さて、先日書いた、退屈をやり過ごす戦略についてですが、「目標に向かう生き方」を敢えてやっているのか、何も考えずにやっているのかによって大きく違ってくるように、「祭に参加する生き方」も、実は、「向こう側」を本当に深く知ってから戻ってくるのと、飲み会とか競馬とかでストレスを解消しながらやりすとすのとでは、全然違います。
向こう側を知ることは、カオスに直面することです。そして、意識が消えるという危機的な状況に陥ることです。はっきり言えば、「死」に直面することです。
一度死にかけた人は、生きているだけで世界が輝いて見えると言います。
一度「生」のレールを外れ、「向こう側」に行って「死」を知り、そして改めて戻ってくること。存在の無根拠性を知り、それでも在る神秘と奇跡を知り、もう「生きてるだけで丸儲け」という境地に達することです。
存在を照らす「光」を感じ続けることができれば、退屈な日常は神秘の光を帯びてきます。
誰か他人が見ていなくても、光に照らされていることを感じられれば。そして、大きなものとつながっていることを感じられれば、そこに倫理と道徳が生まれます。自然に在る木々や動物達と同じように、自分の役割を淡々とこなすことができるようになります。
それが「祭」の本来の役割であり、通過儀礼の本来の姿なのです。
通過儀礼の儀式があるなど、野蛮で未開の文明だと思う「文明人」もいるでしょうが、実はそちらの方が進んでいるかも知れず、彼らにとって見れば、「文明人」などは皆、通過儀礼も通っていない「子供」なのです。確かに、アメリカ人などを見ると、エゴ丸出しの子供のようです。彼らに滅ぼされたインディアンの方が、精神性は高かったでしょう。


さて、だんだんこのブログも精神世界っぽいというか、ヒッピーっぽいというか、なんかそんな方向に進みはじめました。
半ば無意識で書いているのですが、どうやら私の趣味趣向は完全にそっちの方にあるみたいです。
というか、私の方向性は、良く言えば「バランスを取る」というところにあり、はっきり言えば「天の邪鬼」なので、少数意見を言いたいだけかもしれません。

「向こう側」と「敢えて」

さて、前回の文章の後半はネタのようなことになって終わってしまったのですが、でも実際に、閉塞した世界を乗り切るために、「なんでもいいからとにかく働く」というのは戦略の一つです。


現在の状況認識については、何度か書いていますが、「社会は成熟し、価値観が細分化され、もう意味も重要なことも大きな物語も残されておらず、自然とは切り離され、エントロピーは増大し、汚れがたまり、環境は危機的で、増えすぎた人が生き残るためには限られた資源を分け合いながらなるべく息をしないでひっそりと生きるしかない」というように、まあそれは悲観的過ぎるとしても、だいたいそのように考えているのですが、では、だったら、どうするのか?ということです。
で、


A:「向こう側」に触れて戻ってくる
「向こう側」とは、「存在/美/語り得ぬもの」といったようなものです。退屈な日常が続いても、これらに触れることができれば、精神は活性化します。
それは、
生活のスピードを落とし、自然の中に、日々の中に、存在の神秘を感じること。
音楽や絵画や詩などの芸術に触れること。
自然に触れ、深く感じること。
瞑想すること。
・・・などですが、大きく枠組みを超えることだけではなく、なんのことはない、日常的なストレス解消や趣味と呼ばれるものはたいてい当てはまります。
酒を呑むこと。
サッカーに熱中すること。
格闘技に熱中すること。
スポーツをすること。
車でもバイクでもダイビングでもクラブでもスノーボードでも映画でも音楽でもなんでも構いません。
つまりは、「祭」に参加すること。
これは、レヴィ・ストロースが言った(そうです)ように、「冷たい社会」、いわゆる「発展途上国」の取る戦略で、退屈で秩序に縛られた日常を覆すような祭りを年に1度、あるいは数年に1度行って、精神のバランスを取るというものです。
そこは作り出されたカオスの場で、酒と音楽と踊りにより、生と死(と性)が剥き出しになります。実際、人が死んだりもします。日常の価値観は覆され、無駄使いがなされ、普段の役割は逆転します。無礼構です。
これは、作られた秩序から「向こう側」に飛び出し、再び戻ってくるという仕組みです。
昔から、このようなバランスの取り方は必要とされてきたのだし、今でも「打ち上げ」などの形で、日常的に小さく行われています。実際、酒を飲んでうさを晴らしていれば退屈な日常はなんとかやりすごせます。
日本でも、だんじりねぶた祭御柱など、いくつかの祭りには原初のエネルギーが、機能が残っていると思われますが、限られた地方だけのことです。日本全体は、「熱い社会」に分類されます。
そこで、


B:敢えて目標を設定し、そこに向かうこと。
これは、ゴールすることにたいして意味はないと知りつつ、過程が全てだと知りつつ、それでも隙間を埋めるために、敢えてゲームに参加するという戦略です。
習い事をすること。
英語の勉強をすること。
ジムで体を鍛えること。
仕事に熱中すること。
これらは、自己に、存在そのものに向き合わないための、問題の先送りとも言えます。「立ち止まったら死んでしまう病」という不治の病かもしれません。
スケジュールを埋めないと不安になる人はたくさんいます。一人でいて、携帯を持っていなかったら、隙間を埋められず不安になる人はたくさんいます。
でも、それでもいいのです。立ち止まらなければ、大丈夫なのです。いくら薄氷の上を進んでいても、立ち止まらなければ氷が割れることはないのです。
再び、レヴィ・ストロースが言った(そうです)ように、「熱い社会」とは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国であり、戦略として「祭」を持っておらず、日常のズレは「上を目指すこと」、「先を目指すこと」などという形で、日常の中で解消する仕組みを持つとされます。


さて、そういうわけなので、この方向性の本来の形は、もっと長期的な目標を設定することにあります。
つまり、
社会的な地位と名誉を手に入れる。
出世する。
医者や弁護士や会計士になる。
そのために、勉強を続け、仕事を目一杯やり、残業をし、土日も出勤する。
というようなことです。


さて、ここで、戦後の日本において完全に正しいとされたこれらの価値観がほとんど崩れかかっているところが問題なのです。
「社会」によって承認される「意味」が力を持たなくなっている今、それらの長期的なゴールには栄光が待ってはいません。多分。
それを知った上で、敢えて長期的な過程を選ぶだけのタフさを、無意味に耐えられるだけのタフさを持っているのならば何も問題はないのですが、何かがあるのではないかと思いながら問題を先送りにしている人が、危険なのです。
それは、目標が途中で挫折したときに無力であったり、目標に到達してしまった時に、やはりそこには何もなくて、廃人のようになってしまったりということであって、それはすでに先人達が実例を示しているようなことでもあります。
無意味さに気づいているかどうか、というのはとても大きいと思います。
では、なぜ無意味なのか?と言えば、現在の成熟した社会では、もう皆が目標に向かって努力する必要がないからです。それどころか、環境が破壊され、資源が枯渇しかかっている世界において、一部の人がそんなに働いたら、他の多くの人が迷惑するからです。


しかしながら、世間的には、「A」組にはフリーターや「ニート」やひきこもりを多く含み、収入が少ない「負け組」とされやすそうです。
一方、「B」組にはエリート、キャリア、ワーカホリック、多趣味で活動的な人を多く含み、収入が多い「勝ち組」とされやすそうです。
それは、これまでの社会が「B」を求めていたからです。そして、価値観が大きく変わり始めている現在においても、まだ多くの社会は「B」の価値観に従って動いているからです。
そして、「B」には、意味とか無意味とかに何も気づいていない人を多く含んでいます。何も考えていない体育会系的馬鹿とも言えますが、それが今でも日本社会では評価されます。昔の価値観で動いた結果偉くなった年寄りが社会を動かしているのだから、それは当然です。
そして、一部の若手は、彼らに動かされつつ、実感との乖離に悩んだり、悩まないように自己暗示をかけたり、「A」とか「B」とか言ったりして日常を耐えているわけです。
高度成長期には、最大多数の最大幸福は物質的な幸せの上に成り立つと信じられていたし、実際、「衣食足りて礼節を知る」ということもあるわけで、規格品を安く売れば、それは確実に社会的正義だったわけですが、物質があふれ、それでもまだ幸福ではなくて、幸せが個人の能力や知識や感性やイメージ力の問題(って、それら全部、本屋に大量に並んでます。)だということになってくると、もうそれは個々の問題であって、「社会的に絶対的に正しい仕事」なんてものはなくなり、後はもう出来上がっているものの維持・更新であったりして、たいしたプロジェクトXは残っていないのですし、それでもがんばろうとするのは、「それはあなたが金を儲けたいからでしょう?エゴでしょう?だって企業は営利目的でしょう?」ということで、それは最初から明確にそうなのだし、A・スミスやミルの功利主義だって、自らの利益の追求を善として認めているのだけれども、それはまだ自然の力が巨大でゴミはいくらでも捨てられた時代の話で、人間が好きなようにしたら地球に悪影響を与えることがはっきりしてしまった今となっては、種全体のために、地球全体のためにバランスを取る必要が出てくるのであって、繊細なバランス感覚を持っている人だったら気づかないふりはできず、「働くことは正義だ」とか「エゴは肯定される」などと鈍感に言っていることはできないわけです。
しかしながら、まだ価値観の転換がうまくできていない社会においては、本当に必要とされるサービスや、維持・更新のような地味で目立たない仕事よりも、自然を破壊したり資源を効率よく消費するような仕事の方が重要で良い仕事とされ、収入も多くなるのです。
我々は、電気やガスや水道や車やらのない生活には戻れないのだけれど、徐々に、バランスは取らなくてはいけないのだと思います。我々の生活は、多くの貧乏な国の上に成り立っているわけです。
アメリカの、「自分だけが正しいという顔をしつつ、実は石油の利権狙い丸出しで、自分と違う人は怖いから敵で、地球温暖化も関係ないから自分だけは良い暮らしがしたい」という不安とエゴまみれの姿勢を見れば、普通の感性では美しくない、と思うでしょうし、「他人のふり見て我がふり直せ」ということです。


さて、結論などは当然ないのですが、大切なことは、「知ること」、「気づくこと」、そして「バランスを取る」ことだと思います。少なくとも、今の状況には自覚的になることです。
「熱い社会/冷たい社会」というのは、価値観の一つの相対化でした。「発展途上国/先進国」なんていうのは、白人の傲りです。
一方向に進化する「近代化」なんていうのは、たまたまある条件が重なった時にのみ、自然環境などを犠牲にしつつ生まれた現象に過ぎないのかもしれません。
人間社会も、自然と同じように四季を辿りつつ、循環しながら進んでいくものだとすれば、「死と再性」の儀式である「祭」を行いつつ、バランスを取りながら徐々に進化するほうが「正しい」「進んだ」考え方なのかもしれません。
大きな価値観の変化は起こっています。若者はその犠牲になっています。「やりたい仕事がない」のは当たり前です。やるに値する仕事がないからです。理想を持っていれば、「人の役に立つ、絶対に正しい仕事」がやりたいに決まっています。今、絶対に正しいのは「ボランティア」くらいですが、当然仕事にはなりませんから。
しかし、大きな進化は若い世代から起こります。現在の枠組みから見た「異分子」は、次の世代では常識になります。その時、変化について行けない世代は滅びるだけです。


なお、こういう考え方も相対化しておくと、これは「エコロジーさん」とか「ヒッピー」とか「ニューエイジ」とかいう流れに近いようで、中央線沿線に多く棲息しているようですが、私は知らないうちに、インドに行ってからこのような流れにものすごくシンクロしていたのですが、時代の中で、このような考え方は何度も盛り上がり、しかしながら、社会は何も変わらず続いている、ということではあります。

自己言及(3)

さて、こうして書いていて、心もとないのが「文体」です。
きっと自分の文章のセンスに自信が持てるのは、20代半ばまでです。もうあれです。若者のセンスとかそういうのは分かりません。カラオケでも新譜のページは飛ばして見ます。別にいいじゃん?と開き直るようになってきました。おじさんとつき合っている方が気が楽です。
20代後半くらいまでは、TVでも音楽でも雑誌でも、文化に完全について行ってて、いやむしろちょっと先を行っているくらいのところもあって、文体にしても、「分かってる」と思いつつ書けるのですが、今や、書いていて全く自信がありません。俺は古いのではないか?もう駄目なのではないか?「どれどれ、最近はこういうのがナウいのか?」とか聞いてしまいそうです。かといって、2ちゃんねるのような文章にする気も全くありません。絵文字だって断固使うものか。オヤジ化していく自分が快感になっていきます。
しかし、それは一面から見ればついて行けないが故の開き直りですが、一面から見れば成長しているということでもあります。
「全部分かっている」というようなポイントを押さえた文体というのは、狭い共同体の中で、「どっちが俯瞰で見ているか、どっちが冷静か、どっちが分かってるのか」という、ポジション取りの戦いの結果でもあります。それは若者にありがちな自意識の戦いです。視点は優位なポジションをめぐって無限に後退し続けます。うらのうらをかいたところをちょっと外した辺りを狙って・・・。みたいなところで、微妙なセンスを競うことになるのですが、そんな微妙さなんてものは、体育会系の親父に丸ごとふっ飛ばされるような小さな世界であったりもします。
繊細さとかセンスをなくすということは、力をつけるということと同じことでもあるのです。
「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんな馬鹿な過ちはしないのさ」って、小沢健二が最初に歌ってましたが、その後、差異が細かくなりすぎて身動きが取れなくなった世界を、彼は本当に飛び出して、言葉を超えた光そのもののような場所に飛び出して行きました。私はそういう瞬間がとても好きです。そして90年代、小沢健二は変化を続けました。その過程をタイムリーに追って行けて良かったと思っています。それは私の成長とシンクロしていました。
言葉と制度で埋め尽くされた閉じた共同体を飛び出して、向こう側―言葉の及ばない、光と影と混沌とがある場所に飛び出すこと。そして、そこから戻ってくること。それが通過儀礼の儀式であり、成長するために欠かせないことです。そこには物語があり、感動があります。それは村上春樹が何度も書いているテーマでもあります。深い音楽が達している世界です。
ネットなどをたまに覗いてみると、狭い共同体の中で言葉が溢れ、身動きが取れなくなっているのを見かけますが、互いの言葉を相対化するよりも、その世界そのものを相対化すべく、小沢健二を聴き、村上春樹を読むことです。ビートルズジミ・ヘンドリックスビーチボーイズやベートーベンやワーグナーを聴きこむことです。そして座禅をし、瞑想をし、ランナーズハイになるまで走ることだ。ワーカホリックになるまで働くことだ。とにかく働け!無駄なことをしゃべってる暇があったら働くのだ!・・・などと、「心もとない」から始まってもいつの間にか説教になってるようなのは完全にオヤジなので、気をつけましょう。

自己言及(2)

さて、こうして言葉の限界のようなところに意識を向けつつ文章を書き、一方的にエネルギーを吐き出していると、消耗もするのですが、不思議なことに、別のところから情報が入ってきたりします。これは一種のシンクロニシティのようなものでしょうか。水泳で息つぎをするときには、まず吐き出すことだ、ということにも似ているかもしれません。
普通のコミュニケーションと違って、時間差をつけてリアクションを頂く、というのもその一つです。
また、自分の中の問題として、音楽が染み込んでくるようになります。歳をとって、心が安定してくるにつれて、音楽に心動かされることが少なくなり、多くの音楽がうるさいだけに感じられることも多くなってくるのですが、こうしてエネルギーを発散して心が不安定になってくると、それを補うように、音楽が心にしみ込んで来ます。
また、本を読めば、自分が書いていることに関係することが書いてあり、リンクし共鳴します。
夏目漱石の「草枕」を読めば、「住みにくい世を住みやすくするための芸術」とか「明暗は表裏のごとし」とか「喜びの深いほど憂いも深く、楽しみの大きいほど苦しみも大きい」とかいうことを言っている。
「よのなか」という本を読めば、宮台真司が「成熟した社会では「意味」は見つけにくい。資源と環境という制約があるのだから、成長には限界があり、共生するしかない。意味(物語)でなく、強度(体感)だ。「今ここ」で楽しむことだ。「あえて」目標を設定することだ。「偶然」に身をさらすことだ。言葉の外側の世界を体感することだ。」とか言っている。
東浩紀の「郵便的不安たち#」を読めば、「日本社会は「大きな物語」を失い断片化(ポストモダン化)していて、社会全体を見渡す特権的な視点は失われていて、90年代以降、「フェイクとしての全体理論」に向かったり、全体志向を最初から放棄して身近な共同体に自閉したりしている。そして身近な世界と形而上学的世界(宇宙や真理や運命など)に分裂し、その中間に位置する社会/意味/言葉の力が弱まっている。その結果、共同体の復興を求める「新保守」と、小さい共同体の中でまったり生きよと言う宮台真司のような考えが現れる。」などと言っている。
これらは、まさに私がここに書いてきたことです。いや、書ききれないけれど考えていたことです。
まあ、草枕に書いてあるのなら、わざわざこんな所で舌足らずな文章を書く必要があるのか?ということにもなるわけですが、そんなことを言っていたら、ロックはビートルズとジミ・ヘンあたりでもう完成してるんじゃないの?とかいうことになってくるので、まあそのあたりは大目に見ることにします。自分で。

自己言及(1)

さて、そろそろ書きたいことも一巡してきたので(え、もう?)、書いていて感じたことをいくつか並べてみることにします。
まずは、仕事をする情熱が失われます。これは、以前大量の文章をアップしていた時にも感じたことですが。
私はどうやら仕事を「自己表現の手段」と考えているようで、仕事への興味はそこにあるのですが、やはりたいして興味のない分野の資料を数人に向けて表現しているよりも、こうして自分の興味のあることを多数(可能性としてはね。)に向けて表現している方が、表現欲を刺激するわけで、そうすると仕事をする気力が失われ、昼間は退屈で、眠くてしょうがないということになるのです。
しかしながら、仕事は自己表現の手段以前に「生活の手段」であるので、やはりこれは困ったことであると言うべきでしょう。それはそうです。
今後の書き方を考える必要がありそうです。


また、書いていると、いろいろな意味で消耗してきます。
書くことは熱/エネルギーを吐き出すことです。ここ1ヶ月の間に書いた内容は、実はその前3ヶ月に吸収したことを吐き出しているので、なんというかエネルギーの呼吸のバランスが崩れる感じがします。特にエネルギーの減退してきている昨今、疲れが如実に分かります。今まで安定して充実していた心のバランスが崩れがちというか、コップの中身が減るような感覚があります。まあ、この程度で?ということでもあるわけなのですが。
ネットという場に書いてみて初めて気づくことなのですが、通常の会話や電話やメールなど、特定の相手がいるコミュニケーションでは、相手からなんらかのリアクションがあるわけで、手応えがあるのですが、このキャッチボール感がとても重要なのですね。エネルギーの交換というか、気の交流というか、そういうものがきちんとできていることは重要なようです。
メールなどでは、直接のコミュニケーションなどと比べ、交換しあう情報の量は極めて少なくなるわけですが、それでもこうして一方的に書いているのとは全く違うのであって、こういう文章の発表は、壁もないところで一人でボールを投げているような、深い井戸に向かって石を投げているのに全く音が聞こえてこないような、そんな所在のなさがあります。そうすると、消耗してくるのですね。コミュニケーションは大切です。
インターネットという場は、このような行き場のない大量のエネルギーが捨てられて、消えることなく充満している訳で、そう考えるととても恐ろしいような気がします。おそらく、成熟した社会ではそれほどのエネルギーはもう必要とされていなくて、ネットは行きどころのなくなったエネルギーの捨て場所という役割を果たすことになるのでしょう。そこから新たな創造的な場所が作り出されるという理想もありますが、今のところは、2ちゃんねるのような悪場所の方が目立っているような気もします。
ネットの場にはエネルギーを吸い取る独自の力のようなものが働いていて、ただでさえ言葉だけではたいしたことは伝えられないのに、リアクションがない不安から、言葉がどんどん増えていきます。
そうすると、言葉の断片が心の中に沸きあがって、落ち着きません。多分一番良いのは頭の中に雑念が浮かんでいない瞑想状態なのですが、言葉がとめどなく沸いてくると、とても疲れます。
もしくは、単に書こうとすると時間が取られるので、寝不足になって疲れるのかもしれません。


また、そんなに疲れるのは、濃く重い文章ばっかり書いているせいかもしれません。「むこう側」とか「光と闇」とか「通過儀礼」とかそんなことばっかりです。
こんなはずではなかったのです。
バランスを取りつつ、瓢瓢とした風情で、ポップでキュートな面白エッセイを書くつもりだったのです。イメージはさくらももこ宮沢章夫です。
でも無理でした。なぜか?文体か?そう思って文体を変えてみたのですが。まあ根本的な問題はそこになく、おそらく性格的なものでしょう。
以前、4年前にもサイトを立ち上げ、大量の文章を書いたのですが、どうしても、いつの間にか一人で突っ込んでいて痛いものになってしまいました。言葉を越えた地点に思いをめぐらし、あるいはこの世界の「意味」について考え、その一方で無意味で下らない文章を書き、無意味な絵を描き、音を作り、批評をしと、全体としてはバランスを取っているのですが、一貫性がなくて、この人は一体何なのだ?ということになるのでした。
ただ、その中でも、掲示板で友人達と議論?をした下りは、ディープさと客観性のバランスがある程度取れていて、自分的には好きな感じでした。
ネット上で、誰とも分からないマスを相手に文章を書くことは、自分に向けて文章を書くことと同じで、そうするとすぐに客観性を失い、一人で突っ込んでいて痛いことになるのでした。
それに、ここに書くようなことは、普段の生活では口にしないような、「過剰」な部分であるので、あまり身の回りの人には存在を教えずにやっており、キャラクターも作っていないので、はじめは他人を意識して書いているはずでも、だんだん独り言に近くなり、ポップからはどんどん遠くなるのでした。もうのりは電車の中で一人でぶつぶつ言ってる人と同じです。
「超個人的な部分が公(可能性としては。)になり、身近な人とはあたり触りなく社会的に接する」というねじれが生じていて、とても不思議な感覚です。自分でやってることですが。
私のスタンスとしては、ネット上には普段の生活を出さないように、ということでやっています。ただでさえ溢れかえるテキストの海に、今日食べたものの情報などを注ぎこんでどうする?と、他人のことはいいのですが、私自身はそう思うのです。たまたま読んだ人が、少しでも何か役に立つものを。と思ってたのですがすみません。結局、こうして自己言及になるのですが。
書評をしてても、形を変えた自己言及です。そしてしまいには開き直ってこうして「自己言及」という名の自己言及です。これが一番楽しいのです。名もない一民間人が昨日何を食ったかなど知るか。というのと同じくらい、名もない一民間人がブログを書いて何を感じたかなど知るか。ということなのですが。もうやけで、だらだらと無意味な文章が続いているのも全体としてみれば面白いかなあと思いつつ、こうしてテキストを増やしているわけですが、これも普段はなるべく短い文章で多くのことを言おうと考えたりもしていた反動で、こうして考えずに書いているとストレス解消になります。
まあだいたい、私の心の平安や安定や充実などというものは、ちょっとしたことですぐに失われるへっぽこなものなので、人様に何かを与えようなどとおこがましい気持ちを持ってブログなど書いていても1ヶ月弱で疲れてくるようなものなので、ゴミを捨てさせてもらうという謙虚さを持ちつつ、お互い様だしと開き直りつつ、こうして無駄な言葉を垂れ流しているのも一興ではないかと、そう思ってもみたりするわけであります。

書くということ

1つのコップがある。中には泥水が入っている。
この水をきれいにしたいと思う。
一番良いのは、放っておくことだ。
泥は沈殿し、上澄みは透き通る。
しかし、水と泥とがきれいに分離してくると、泥だけがきれいに取り除けるのではないかと思ってしまう。
そしてコップを揺らすと、泥は再び水と混ざり合ってしまう。無理に泥を捨てようとすると、水まで捨ててしまう。コップはやがて空になる。


コップと泥水とは、心である。
書くことは、泥を捨てようとすることである。


全てを切り分けることは、この現実の世界では不可能だ。
水に不純物は必ず混ざっているし、光ある所に影は必ずできる。
エントロピーの法則に従い、熱は拡散するし、汚れは必ず増えていく。
純粋なものは、必ず汚され、損なわれていくのだ。
時間の存在するこの世界は、そういうふうにできている。


それが分かっていても、どうしても、しばらくすると、心が落ち着いてくると、書きたいと思ってしまう。
そしてその結果、水と泥は混ざり、心の中には言葉の断片が湧きあがり、言葉はぶつかりあって収拾がつかなくなる。やがて、水ごと捨てられて心は空っぽになる。


熱が散らばり、損なわれ、汚れが広がっていく中で、それを押しとどめ、熱を集め、汚れを浄化し、闇を受け止める、その行為だけが、人に感動を与える。
それは、それらが生きること、そのものだからだ。


書くことは、自分の心の汚れを捨てさせてもらうことだ。
だから、その代償として、自分の中でそれらのゴミの中から純粋なものを結晶させ、美しいものを作り出さなくてはいけない。新たな熱を生み出さなくてはいけない。
それが、全ての「表現」につきまとう責任なのだ。
・・・今まで、すみません。

「イワン・イリッチの死」(トルストイ)

分かりやすく、感動的。
1884年の作品が「分かりやすい」ということがすでにすごいことだ。主人公の裁判官の生涯には、普通に共感(もしくは理解)できる。
彼の生涯は、普通に地位や名誉を求めるもので、向上心にも溢れている、悪くないものだ。というか、人もうらやむようなエリートの生活と言えるのかもしれない。サラリーマンとしての一つの理想と言える。
しかしそれは、「世俗的。」と一言で言われてしまうような生活でもある。その特徴は、死を隠す上品さとセンスにある。
それは、思い出してみると、私が中高生の頃、「世の中は建前ばかりだ」と嫌悪した世界であったりもする。うわべだけの会話。本音はどこにもなく、悩みは隠す。いや、そもそも悩みなどはないのだった。競争をしているのに表面上は仲良く、しかし重要なことは何も言わない。それが上品さと呼ばれるものだ。
きっと、多くの人が、それを憎んだ時期があるのではないだろうか。そして、そのうちに忘れていくのではないだろうか。


最後、死に直面したときに、それらは誤りだったと主人公は悟る。孤独と絶望に襲われる。
しかし、やがて他人を哀れむことができるようになる。その時、死はそこになく、光がある。
幼い頃にあった光は、生活の中で次第に消えてしまう。しかし、最後の時に、再び光はそこに現れる。それは価値観の転倒だ。
それから120年が経ってもまだ、いやますます、世俗的な生活は強力で、価値の転倒などはなされていない。


けれど、だからと言って、進歩していないということでもない。
世間的な価値を捨てることは、とても難しいことだ。世捨て人になっても後悔はないのかと言えば、当然あるし、いずれにしても食っていかなくてはいけない。世俗を捨て、精神的に生きようとしても、皆がそうしたら、社会は回っていかない。死は誰にでも訪れるけれど、それでも死ぬときまでは生きていかなくてはいけない。
それならば、その時までは、世間でより良く生きることが大切なのだし、世界は多様な、具体的な世間の中にしかないのかもしれない。
「光」は一度失って、最後にもう一度手に入れるからこそ感動的なのであって、最初から最後まで持っているのだったら、その間の生きている時間はただの無駄だ。
やはり、この本のように、世俗的生活という遠回りをする必要があるのかもしれず、だから、この本も人に感動を与えることができる。
でもそうすると、人生というのは長い暇潰しのようなもので、たいした意味などはないということにもなるのだったが、別に意味がある必要もないのかもしれなかった。


光を感じるためには、闇が必要だ。
悟りを得るには、一度真理を忘れることが必要だ。
旅行を楽しむには、距離が必要だ。
ギャンブルを楽しむには―ドキドキしたり、ほっとしたりするためには―時間が流れていることが必要だ。
我々の人生というものは、全てを理解して時空を超越している「神」が、自ら記憶喪失になって演じているゲームのようなものだ。
だったら、それぞれ、自分の役割を黙って演じていれば良いのかもしれなかった。


だとすると、私の役割は、「分かり切っていることをわざわざ言葉にして芝居を台無しにする役立たず」といったところか。


もはや書評でもなんでもないが、
(☆☆☆☆☆)
イワン・イリッチの死 (岩波文庫)