補足

さて、先日書いた、退屈をやり過ごす戦略についてですが、「目標に向かう生き方」を敢えてやっているのか、何も考えずにやっているのかによって大きく違ってくるように、「祭に参加する生き方」も、実は、「向こう側」を本当に深く知ってから戻ってくるのと、飲み会とか競馬とかでストレスを解消しながらやりすとすのとでは、全然違います。
向こう側を知ることは、カオスに直面することです。そして、意識が消えるという危機的な状況に陥ることです。はっきり言えば、「死」に直面することです。
一度死にかけた人は、生きているだけで世界が輝いて見えると言います。
一度「生」のレールを外れ、「向こう側」に行って「死」を知り、そして改めて戻ってくること。存在の無根拠性を知り、それでも在る神秘と奇跡を知り、もう「生きてるだけで丸儲け」という境地に達することです。
存在を照らす「光」を感じ続けることができれば、退屈な日常は神秘の光を帯びてきます。
誰か他人が見ていなくても、光に照らされていることを感じられれば。そして、大きなものとつながっていることを感じられれば、そこに倫理と道徳が生まれます。自然に在る木々や動物達と同じように、自分の役割を淡々とこなすことができるようになります。
それが「祭」の本来の役割であり、通過儀礼の本来の姿なのです。
通過儀礼の儀式があるなど、野蛮で未開の文明だと思う「文明人」もいるでしょうが、実はそちらの方が進んでいるかも知れず、彼らにとって見れば、「文明人」などは皆、通過儀礼も通っていない「子供」なのです。確かに、アメリカ人などを見ると、エゴ丸出しの子供のようです。彼らに滅ぼされたインディアンの方が、精神性は高かったでしょう。


さて、だんだんこのブログも精神世界っぽいというか、ヒッピーっぽいというか、なんかそんな方向に進みはじめました。
半ば無意識で書いているのですが、どうやら私の趣味趣向は完全にそっちの方にあるみたいです。
というか、私の方向性は、良く言えば「バランスを取る」というところにあり、はっきり言えば「天の邪鬼」なので、少数意見を言いたいだけかもしれません。