「向こう側」と「敢えて」

さて、前回の文章の後半はネタのようなことになって終わってしまったのですが、でも実際に、閉塞した世界を乗り切るために、「なんでもいいからとにかく働く」というのは戦略の一つです。


現在の状況認識については、何度か書いていますが、「社会は成熟し、価値観が細分化され、もう意味も重要なことも大きな物語も残されておらず、自然とは切り離され、エントロピーは増大し、汚れがたまり、環境は危機的で、増えすぎた人が生き残るためには限られた資源を分け合いながらなるべく息をしないでひっそりと生きるしかない」というように、まあそれは悲観的過ぎるとしても、だいたいそのように考えているのですが、では、だったら、どうするのか?ということです。
で、


A:「向こう側」に触れて戻ってくる
「向こう側」とは、「存在/美/語り得ぬもの」といったようなものです。退屈な日常が続いても、これらに触れることができれば、精神は活性化します。
それは、
生活のスピードを落とし、自然の中に、日々の中に、存在の神秘を感じること。
音楽や絵画や詩などの芸術に触れること。
自然に触れ、深く感じること。
瞑想すること。
・・・などですが、大きく枠組みを超えることだけではなく、なんのことはない、日常的なストレス解消や趣味と呼ばれるものはたいてい当てはまります。
酒を呑むこと。
サッカーに熱中すること。
格闘技に熱中すること。
スポーツをすること。
車でもバイクでもダイビングでもクラブでもスノーボードでも映画でも音楽でもなんでも構いません。
つまりは、「祭」に参加すること。
これは、レヴィ・ストロースが言った(そうです)ように、「冷たい社会」、いわゆる「発展途上国」の取る戦略で、退屈で秩序に縛られた日常を覆すような祭りを年に1度、あるいは数年に1度行って、精神のバランスを取るというものです。
そこは作り出されたカオスの場で、酒と音楽と踊りにより、生と死(と性)が剥き出しになります。実際、人が死んだりもします。日常の価値観は覆され、無駄使いがなされ、普段の役割は逆転します。無礼構です。
これは、作られた秩序から「向こう側」に飛び出し、再び戻ってくるという仕組みです。
昔から、このようなバランスの取り方は必要とされてきたのだし、今でも「打ち上げ」などの形で、日常的に小さく行われています。実際、酒を飲んでうさを晴らしていれば退屈な日常はなんとかやりすごせます。
日本でも、だんじりねぶた祭御柱など、いくつかの祭りには原初のエネルギーが、機能が残っていると思われますが、限られた地方だけのことです。日本全体は、「熱い社会」に分類されます。
そこで、


B:敢えて目標を設定し、そこに向かうこと。
これは、ゴールすることにたいして意味はないと知りつつ、過程が全てだと知りつつ、それでも隙間を埋めるために、敢えてゲームに参加するという戦略です。
習い事をすること。
英語の勉強をすること。
ジムで体を鍛えること。
仕事に熱中すること。
これらは、自己に、存在そのものに向き合わないための、問題の先送りとも言えます。「立ち止まったら死んでしまう病」という不治の病かもしれません。
スケジュールを埋めないと不安になる人はたくさんいます。一人でいて、携帯を持っていなかったら、隙間を埋められず不安になる人はたくさんいます。
でも、それでもいいのです。立ち止まらなければ、大丈夫なのです。いくら薄氷の上を進んでいても、立ち止まらなければ氷が割れることはないのです。
再び、レヴィ・ストロースが言った(そうです)ように、「熱い社会」とは、いわゆる「先進国」と呼ばれる国であり、戦略として「祭」を持っておらず、日常のズレは「上を目指すこと」、「先を目指すこと」などという形で、日常の中で解消する仕組みを持つとされます。


さて、そういうわけなので、この方向性の本来の形は、もっと長期的な目標を設定することにあります。
つまり、
社会的な地位と名誉を手に入れる。
出世する。
医者や弁護士や会計士になる。
そのために、勉強を続け、仕事を目一杯やり、残業をし、土日も出勤する。
というようなことです。


さて、ここで、戦後の日本において完全に正しいとされたこれらの価値観がほとんど崩れかかっているところが問題なのです。
「社会」によって承認される「意味」が力を持たなくなっている今、それらの長期的なゴールには栄光が待ってはいません。多分。
それを知った上で、敢えて長期的な過程を選ぶだけのタフさを、無意味に耐えられるだけのタフさを持っているのならば何も問題はないのですが、何かがあるのではないかと思いながら問題を先送りにしている人が、危険なのです。
それは、目標が途中で挫折したときに無力であったり、目標に到達してしまった時に、やはりそこには何もなくて、廃人のようになってしまったりということであって、それはすでに先人達が実例を示しているようなことでもあります。
無意味さに気づいているかどうか、というのはとても大きいと思います。
では、なぜ無意味なのか?と言えば、現在の成熟した社会では、もう皆が目標に向かって努力する必要がないからです。それどころか、環境が破壊され、資源が枯渇しかかっている世界において、一部の人がそんなに働いたら、他の多くの人が迷惑するからです。


しかしながら、世間的には、「A」組にはフリーターや「ニート」やひきこもりを多く含み、収入が少ない「負け組」とされやすそうです。
一方、「B」組にはエリート、キャリア、ワーカホリック、多趣味で活動的な人を多く含み、収入が多い「勝ち組」とされやすそうです。
それは、これまでの社会が「B」を求めていたからです。そして、価値観が大きく変わり始めている現在においても、まだ多くの社会は「B」の価値観に従って動いているからです。
そして、「B」には、意味とか無意味とかに何も気づいていない人を多く含んでいます。何も考えていない体育会系的馬鹿とも言えますが、それが今でも日本社会では評価されます。昔の価値観で動いた結果偉くなった年寄りが社会を動かしているのだから、それは当然です。
そして、一部の若手は、彼らに動かされつつ、実感との乖離に悩んだり、悩まないように自己暗示をかけたり、「A」とか「B」とか言ったりして日常を耐えているわけです。
高度成長期には、最大多数の最大幸福は物質的な幸せの上に成り立つと信じられていたし、実際、「衣食足りて礼節を知る」ということもあるわけで、規格品を安く売れば、それは確実に社会的正義だったわけですが、物質があふれ、それでもまだ幸福ではなくて、幸せが個人の能力や知識や感性やイメージ力の問題(って、それら全部、本屋に大量に並んでます。)だということになってくると、もうそれは個々の問題であって、「社会的に絶対的に正しい仕事」なんてものはなくなり、後はもう出来上がっているものの維持・更新であったりして、たいしたプロジェクトXは残っていないのですし、それでもがんばろうとするのは、「それはあなたが金を儲けたいからでしょう?エゴでしょう?だって企業は営利目的でしょう?」ということで、それは最初から明確にそうなのだし、A・スミスやミルの功利主義だって、自らの利益の追求を善として認めているのだけれども、それはまだ自然の力が巨大でゴミはいくらでも捨てられた時代の話で、人間が好きなようにしたら地球に悪影響を与えることがはっきりしてしまった今となっては、種全体のために、地球全体のためにバランスを取る必要が出てくるのであって、繊細なバランス感覚を持っている人だったら気づかないふりはできず、「働くことは正義だ」とか「エゴは肯定される」などと鈍感に言っていることはできないわけです。
しかしながら、まだ価値観の転換がうまくできていない社会においては、本当に必要とされるサービスや、維持・更新のような地味で目立たない仕事よりも、自然を破壊したり資源を効率よく消費するような仕事の方が重要で良い仕事とされ、収入も多くなるのです。
我々は、電気やガスや水道や車やらのない生活には戻れないのだけれど、徐々に、バランスは取らなくてはいけないのだと思います。我々の生活は、多くの貧乏な国の上に成り立っているわけです。
アメリカの、「自分だけが正しいという顔をしつつ、実は石油の利権狙い丸出しで、自分と違う人は怖いから敵で、地球温暖化も関係ないから自分だけは良い暮らしがしたい」という不安とエゴまみれの姿勢を見れば、普通の感性では美しくない、と思うでしょうし、「他人のふり見て我がふり直せ」ということです。


さて、結論などは当然ないのですが、大切なことは、「知ること」、「気づくこと」、そして「バランスを取る」ことだと思います。少なくとも、今の状況には自覚的になることです。
「熱い社会/冷たい社会」というのは、価値観の一つの相対化でした。「発展途上国/先進国」なんていうのは、白人の傲りです。
一方向に進化する「近代化」なんていうのは、たまたまある条件が重なった時にのみ、自然環境などを犠牲にしつつ生まれた現象に過ぎないのかもしれません。
人間社会も、自然と同じように四季を辿りつつ、循環しながら進んでいくものだとすれば、「死と再性」の儀式である「祭」を行いつつ、バランスを取りながら徐々に進化するほうが「正しい」「進んだ」考え方なのかもしれません。
大きな価値観の変化は起こっています。若者はその犠牲になっています。「やりたい仕事がない」のは当たり前です。やるに値する仕事がないからです。理想を持っていれば、「人の役に立つ、絶対に正しい仕事」がやりたいに決まっています。今、絶対に正しいのは「ボランティア」くらいですが、当然仕事にはなりませんから。
しかし、大きな進化は若い世代から起こります。現在の枠組みから見た「異分子」は、次の世代では常識になります。その時、変化について行けない世代は滅びるだけです。


なお、こういう考え方も相対化しておくと、これは「エコロジーさん」とか「ヒッピー」とか「ニューエイジ」とかいう流れに近いようで、中央線沿線に多く棲息しているようですが、私は知らないうちに、インドに行ってからこのような流れにものすごくシンクロしていたのですが、時代の中で、このような考え方は何度も盛り上がり、しかしながら、社会は何も変わらず続いている、ということではあります。