自己言及(3)

さて、こうして書いていて、心もとないのが「文体」です。
きっと自分の文章のセンスに自信が持てるのは、20代半ばまでです。もうあれです。若者のセンスとかそういうのは分かりません。カラオケでも新譜のページは飛ばして見ます。別にいいじゃん?と開き直るようになってきました。おじさんとつき合っている方が気が楽です。
20代後半くらいまでは、TVでも音楽でも雑誌でも、文化に完全について行ってて、いやむしろちょっと先を行っているくらいのところもあって、文体にしても、「分かってる」と思いつつ書けるのですが、今や、書いていて全く自信がありません。俺は古いのではないか?もう駄目なのではないか?「どれどれ、最近はこういうのがナウいのか?」とか聞いてしまいそうです。かといって、2ちゃんねるのような文章にする気も全くありません。絵文字だって断固使うものか。オヤジ化していく自分が快感になっていきます。
しかし、それは一面から見ればついて行けないが故の開き直りですが、一面から見れば成長しているということでもあります。
「全部分かっている」というようなポイントを押さえた文体というのは、狭い共同体の中で、「どっちが俯瞰で見ているか、どっちが冷静か、どっちが分かってるのか」という、ポジション取りの戦いの結果でもあります。それは若者にありがちな自意識の戦いです。視点は優位なポジションをめぐって無限に後退し続けます。うらのうらをかいたところをちょっと外した辺りを狙って・・・。みたいなところで、微妙なセンスを競うことになるのですが、そんな微妙さなんてものは、体育会系の親父に丸ごとふっ飛ばされるような小さな世界であったりもします。
繊細さとかセンスをなくすということは、力をつけるということと同じことでもあるのです。
「ありとあらゆる種類の言葉を知って何も言えなくなるなんてそんな馬鹿な過ちはしないのさ」って、小沢健二が最初に歌ってましたが、その後、差異が細かくなりすぎて身動きが取れなくなった世界を、彼は本当に飛び出して、言葉を超えた光そのもののような場所に飛び出して行きました。私はそういう瞬間がとても好きです。そして90年代、小沢健二は変化を続けました。その過程をタイムリーに追って行けて良かったと思っています。それは私の成長とシンクロしていました。
言葉と制度で埋め尽くされた閉じた共同体を飛び出して、向こう側―言葉の及ばない、光と影と混沌とがある場所に飛び出すこと。そして、そこから戻ってくること。それが通過儀礼の儀式であり、成長するために欠かせないことです。そこには物語があり、感動があります。それは村上春樹が何度も書いているテーマでもあります。深い音楽が達している世界です。
ネットなどをたまに覗いてみると、狭い共同体の中で言葉が溢れ、身動きが取れなくなっているのを見かけますが、互いの言葉を相対化するよりも、その世界そのものを相対化すべく、小沢健二を聴き、村上春樹を読むことです。ビートルズジミ・ヘンドリックスビーチボーイズやベートーベンやワーグナーを聴きこむことです。そして座禅をし、瞑想をし、ランナーズハイになるまで走ることだ。ワーカホリックになるまで働くことだ。とにかく働け!無駄なことをしゃべってる暇があったら働くのだ!・・・などと、「心もとない」から始まってもいつの間にか説教になってるようなのは完全にオヤジなので、気をつけましょう。