自己言及(2)

さて、こうして言葉の限界のようなところに意識を向けつつ文章を書き、一方的にエネルギーを吐き出していると、消耗もするのですが、不思議なことに、別のところから情報が入ってきたりします。これは一種のシンクロニシティのようなものでしょうか。水泳で息つぎをするときには、まず吐き出すことだ、ということにも似ているかもしれません。
普通のコミュニケーションと違って、時間差をつけてリアクションを頂く、というのもその一つです。
また、自分の中の問題として、音楽が染み込んでくるようになります。歳をとって、心が安定してくるにつれて、音楽に心動かされることが少なくなり、多くの音楽がうるさいだけに感じられることも多くなってくるのですが、こうしてエネルギーを発散して心が不安定になってくると、それを補うように、音楽が心にしみ込んで来ます。
また、本を読めば、自分が書いていることに関係することが書いてあり、リンクし共鳴します。
夏目漱石の「草枕」を読めば、「住みにくい世を住みやすくするための芸術」とか「明暗は表裏のごとし」とか「喜びの深いほど憂いも深く、楽しみの大きいほど苦しみも大きい」とかいうことを言っている。
「よのなか」という本を読めば、宮台真司が「成熟した社会では「意味」は見つけにくい。資源と環境という制約があるのだから、成長には限界があり、共生するしかない。意味(物語)でなく、強度(体感)だ。「今ここ」で楽しむことだ。「あえて」目標を設定することだ。「偶然」に身をさらすことだ。言葉の外側の世界を体感することだ。」とか言っている。
東浩紀の「郵便的不安たち#」を読めば、「日本社会は「大きな物語」を失い断片化(ポストモダン化)していて、社会全体を見渡す特権的な視点は失われていて、90年代以降、「フェイクとしての全体理論」に向かったり、全体志向を最初から放棄して身近な共同体に自閉したりしている。そして身近な世界と形而上学的世界(宇宙や真理や運命など)に分裂し、その中間に位置する社会/意味/言葉の力が弱まっている。その結果、共同体の復興を求める「新保守」と、小さい共同体の中でまったり生きよと言う宮台真司のような考えが現れる。」などと言っている。
これらは、まさに私がここに書いてきたことです。いや、書ききれないけれど考えていたことです。
まあ、草枕に書いてあるのなら、わざわざこんな所で舌足らずな文章を書く必要があるのか?ということにもなるわけですが、そんなことを言っていたら、ロックはビートルズとジミ・ヘンあたりでもう完成してるんじゃないの?とかいうことになってくるので、まあそのあたりは大目に見ることにします。自分で。