自己言及(1)

さて、そろそろ書きたいことも一巡してきたので(え、もう?)、書いていて感じたことをいくつか並べてみることにします。
まずは、仕事をする情熱が失われます。これは、以前大量の文章をアップしていた時にも感じたことですが。
私はどうやら仕事を「自己表現の手段」と考えているようで、仕事への興味はそこにあるのですが、やはりたいして興味のない分野の資料を数人に向けて表現しているよりも、こうして自分の興味のあることを多数(可能性としてはね。)に向けて表現している方が、表現欲を刺激するわけで、そうすると仕事をする気力が失われ、昼間は退屈で、眠くてしょうがないということになるのです。
しかしながら、仕事は自己表現の手段以前に「生活の手段」であるので、やはりこれは困ったことであると言うべきでしょう。それはそうです。
今後の書き方を考える必要がありそうです。


また、書いていると、いろいろな意味で消耗してきます。
書くことは熱/エネルギーを吐き出すことです。ここ1ヶ月の間に書いた内容は、実はその前3ヶ月に吸収したことを吐き出しているので、なんというかエネルギーの呼吸のバランスが崩れる感じがします。特にエネルギーの減退してきている昨今、疲れが如実に分かります。今まで安定して充実していた心のバランスが崩れがちというか、コップの中身が減るような感覚があります。まあ、この程度で?ということでもあるわけなのですが。
ネットという場に書いてみて初めて気づくことなのですが、通常の会話や電話やメールなど、特定の相手がいるコミュニケーションでは、相手からなんらかのリアクションがあるわけで、手応えがあるのですが、このキャッチボール感がとても重要なのですね。エネルギーの交換というか、気の交流というか、そういうものがきちんとできていることは重要なようです。
メールなどでは、直接のコミュニケーションなどと比べ、交換しあう情報の量は極めて少なくなるわけですが、それでもこうして一方的に書いているのとは全く違うのであって、こういう文章の発表は、壁もないところで一人でボールを投げているような、深い井戸に向かって石を投げているのに全く音が聞こえてこないような、そんな所在のなさがあります。そうすると、消耗してくるのですね。コミュニケーションは大切です。
インターネットという場は、このような行き場のない大量のエネルギーが捨てられて、消えることなく充満している訳で、そう考えるととても恐ろしいような気がします。おそらく、成熟した社会ではそれほどのエネルギーはもう必要とされていなくて、ネットは行きどころのなくなったエネルギーの捨て場所という役割を果たすことになるのでしょう。そこから新たな創造的な場所が作り出されるという理想もありますが、今のところは、2ちゃんねるのような悪場所の方が目立っているような気もします。
ネットの場にはエネルギーを吸い取る独自の力のようなものが働いていて、ただでさえ言葉だけではたいしたことは伝えられないのに、リアクションがない不安から、言葉がどんどん増えていきます。
そうすると、言葉の断片が心の中に沸きあがって、落ち着きません。多分一番良いのは頭の中に雑念が浮かんでいない瞑想状態なのですが、言葉がとめどなく沸いてくると、とても疲れます。
もしくは、単に書こうとすると時間が取られるので、寝不足になって疲れるのかもしれません。


また、そんなに疲れるのは、濃く重い文章ばっかり書いているせいかもしれません。「むこう側」とか「光と闇」とか「通過儀礼」とかそんなことばっかりです。
こんなはずではなかったのです。
バランスを取りつつ、瓢瓢とした風情で、ポップでキュートな面白エッセイを書くつもりだったのです。イメージはさくらももこ宮沢章夫です。
でも無理でした。なぜか?文体か?そう思って文体を変えてみたのですが。まあ根本的な問題はそこになく、おそらく性格的なものでしょう。
以前、4年前にもサイトを立ち上げ、大量の文章を書いたのですが、どうしても、いつの間にか一人で突っ込んでいて痛いものになってしまいました。言葉を越えた地点に思いをめぐらし、あるいはこの世界の「意味」について考え、その一方で無意味で下らない文章を書き、無意味な絵を描き、音を作り、批評をしと、全体としてはバランスを取っているのですが、一貫性がなくて、この人は一体何なのだ?ということになるのでした。
ただ、その中でも、掲示板で友人達と議論?をした下りは、ディープさと客観性のバランスがある程度取れていて、自分的には好きな感じでした。
ネット上で、誰とも分からないマスを相手に文章を書くことは、自分に向けて文章を書くことと同じで、そうするとすぐに客観性を失い、一人で突っ込んでいて痛いことになるのでした。
それに、ここに書くようなことは、普段の生活では口にしないような、「過剰」な部分であるので、あまり身の回りの人には存在を教えずにやっており、キャラクターも作っていないので、はじめは他人を意識して書いているはずでも、だんだん独り言に近くなり、ポップからはどんどん遠くなるのでした。もうのりは電車の中で一人でぶつぶつ言ってる人と同じです。
「超個人的な部分が公(可能性としては。)になり、身近な人とはあたり触りなく社会的に接する」というねじれが生じていて、とても不思議な感覚です。自分でやってることですが。
私のスタンスとしては、ネット上には普段の生活を出さないように、ということでやっています。ただでさえ溢れかえるテキストの海に、今日食べたものの情報などを注ぎこんでどうする?と、他人のことはいいのですが、私自身はそう思うのです。たまたま読んだ人が、少しでも何か役に立つものを。と思ってたのですがすみません。結局、こうして自己言及になるのですが。
書評をしてても、形を変えた自己言及です。そしてしまいには開き直ってこうして「自己言及」という名の自己言及です。これが一番楽しいのです。名もない一民間人が昨日何を食ったかなど知るか。というのと同じくらい、名もない一民間人がブログを書いて何を感じたかなど知るか。ということなのですが。もうやけで、だらだらと無意味な文章が続いているのも全体としてみれば面白いかなあと思いつつ、こうしてテキストを増やしているわけですが、これも普段はなるべく短い文章で多くのことを言おうと考えたりもしていた反動で、こうして考えずに書いているとストレス解消になります。
まあだいたい、私の心の平安や安定や充実などというものは、ちょっとしたことですぐに失われるへっぽこなものなので、人様に何かを与えようなどとおこがましい気持ちを持ってブログなど書いていても1ヶ月弱で疲れてくるようなものなので、ゴミを捨てさせてもらうという謙虚さを持ちつつ、お互い様だしと開き直りつつ、こうして無駄な言葉を垂れ流しているのも一興ではないかと、そう思ってもみたりするわけであります。