書くということ

1つのコップがある。中には泥水が入っている。
この水をきれいにしたいと思う。
一番良いのは、放っておくことだ。
泥は沈殿し、上澄みは透き通る。
しかし、水と泥とがきれいに分離してくると、泥だけがきれいに取り除けるのではないかと思ってしまう。
そしてコップを揺らすと、泥は再び水と混ざり合ってしまう。無理に泥を捨てようとすると、水まで捨ててしまう。コップはやがて空になる。


コップと泥水とは、心である。
書くことは、泥を捨てようとすることである。


全てを切り分けることは、この現実の世界では不可能だ。
水に不純物は必ず混ざっているし、光ある所に影は必ずできる。
エントロピーの法則に従い、熱は拡散するし、汚れは必ず増えていく。
純粋なものは、必ず汚され、損なわれていくのだ。
時間の存在するこの世界は、そういうふうにできている。


それが分かっていても、どうしても、しばらくすると、心が落ち着いてくると、書きたいと思ってしまう。
そしてその結果、水と泥は混ざり、心の中には言葉の断片が湧きあがり、言葉はぶつかりあって収拾がつかなくなる。やがて、水ごと捨てられて心は空っぽになる。


熱が散らばり、損なわれ、汚れが広がっていく中で、それを押しとどめ、熱を集め、汚れを浄化し、闇を受け止める、その行為だけが、人に感動を与える。
それは、それらが生きること、そのものだからだ。


書くことは、自分の心の汚れを捨てさせてもらうことだ。
だから、その代償として、自分の中でそれらのゴミの中から純粋なものを結晶させ、美しいものを作り出さなくてはいけない。新たな熱を生み出さなくてはいけない。
それが、全ての「表現」につきまとう責任なのだ。
・・・今まで、すみません。