制約と自我

人は常にいくつかの大きな制約を受けている。
そして、その制約を巡って生が営まれている。


第1の制約は、「時間」である。
時間は過去から未来へと一方向にのみ流れる。
先のことは分からない。不確実である。不安である。
それは大きな制約である。

しかし、この制約ゆえに、数多くのものが生まれる。
仕事も遊びも時間を巡って存在している。


例えば株式投資、ギャンブルなどが発生する。
「可能性」に関わるもの。
誰も皆、先が分からないから賭ける。自分だけは成功すると思って賭ける。
先のことが分かっていたら、誰も失敗することに投資はしない。
市場は成り立たない。

また、メーカーは効率を追及する。限られた時間のなかで最大の価値を作り出そうとする。
運輸は離れた地点を結ぼうとする。移動時間を短縮しようとする。
通信も同様である。


一方で、常に病気や事故や自然災害などにあう恐れがある。
人はリスクヘッジのために保険に入り、健康を気にして食事に気を使い、適度な運動をする。
先のことが分かっていたら、保険会社は成り立たない。
じきに死ぬことが分かっていたら、誰も健康になど注意しない。


これらはゲームのようなものである。
先の見えない不安があるからこそ、ゲームは成り立つ。
不安と緊張があるからこそ、人はそれに熱中し、喜びを感じる。
先が全て分かっているところに不安はないが、喜びもない。
あるのは倦怠と、恐らくは直接的な恐怖である。
どれだけ努力しても、報われないことが分かってしまっていたら。
どれだけ楽しいことがあっても、それがいずれ終わることを知ってしまっていたら。
死がいつ訪れるかを知ってしまっていたら。
それでも人はその確実な死に向かって生きていくことができるだろうか。


その意味で、時間とは救いだ。
その中で酔い、遊ぶことが許されたルールだ。
人は未来に向かって自分を開き、瞬間ごとに自分の存在を賭けることが求められている。
きっとそれがルールだ。
いつまでも、醒めぬまま僕らは戯れ、熱を放つ。


そのルールの中で、時間は価値である。
持ち点である。ポイントである。
それは時間をかけることによって価値が産み出せるからだ。
逆に言えば、何かを産み出そうとしたら時間がかかってしまうからだ。
いずれにしても、時間と価値が比例関係にあることは確かであり、それは時間が限られたものであることによる。
全ての限られたものには価値がある。


そして、時間が限られたものであるのは、当然生の先に死があるからである。
それだけが本当に平等なことだ。


生は死によって制約を受け、それに関わる時間によって間接的に制約を受けている。
生は死に勝つことはできないが、何とか打ち勝とうと努力を続ける。
より多くの事をし、より多くのものを作り出そうとする。
より多くのことを知り、より遠くに行こうとする。


だから、時間短縮は生にとって価値であり、善である。
時間短縮は時間の創造であり、生の創造である。
価値とは生にとって意味のあるもののことだ。


人は効率の向上やスピードの向上を目指す。
パソコンを導入し、業務改善を行い、インターネットやメールやファイリングなどによって情報の共有化を図る。
飛行機や新幹線や携帯電話などによって移動のスピードを上げる。
時間の創造は生の営みそのものである。


しかし、強迫的なまでのスピードの追求は死の恐怖からの逃避かもしれない。
先のことは見ないフリをして、目先の効率向上を追求すること。
忙しさの中に没入すること。
それは時間を、生を最大限活かそうとする試みではあるが、手段の目的化が進むと、時間を実感することはなくなっていく。
逆に生から疎外されていく。


制約を制約として受け入れた上で、時間をゆっくりと「味わう」ことも必要なのだろう。
大切なのは長さではない。密度だ。
「y=ax+b」(あるいはもっと二次関数的であるかもしれないけれど。)


その中で、止まるくらいスピードを上げて、瞬間でも時間の流れを突き破ることができれば。
xに∞を代入する。
そのとき、その一瞬が「永遠」になる。
制約はなくなる。
だけどそれは死に近い瞬間で、だからこそどうしても届かない懐かしい場所なのかもしれない。
やはり、生とは醒めることのない酔いであるのだろうか。


さて、第2の制約は、「分割」である。
人は地理的にも心理的にも、分割されている。
他人と切り離されている。


地理的な距離によって、文化や風土の違いが生じる。
文化や風土の違いは自他の区別を大きくする。これらにより人種や宗教や言葉の違いが生じる。
地理的分割は、時間と関わりがある。移動には時間がかかるという意味で、距離が制約になる。


心理的には、他人の考えていることが分からないという形で分割されている。
究極的には自分以外の全ての人の考えていることが分からない。
それは孤独であり、恐怖である。
意識は常に孤独である。


人はこれらの距離を埋めようとする。
交通機関を発達させ、移動速度を上げ、そして旅行し、文化交流を図る。
仲間を作る。
言葉というコミュニケーションツールを作り出す。
家族や家や血というフィクションを作り出す。
地域共同体、企業、国家などのフィクションを作り出す。
お気に入りのチームを応援する。


しかし、分割されている不安と恐怖は常に裏に潜んでいて、それは自分の所属する集団以外に投影される。
地理的、心理的な分割により、自分の仲間以外のものが怖い。敵に見える。違いに目が向く。
自分と自分のチーム以外は信じられない。情報の囲い込みが生じる。対立が生まれる。戦いが生まれる。
企業活動などは、情報を全てオープンにすればすぐに終わるようなことを、膨大な手間隙をかけて行っているようなものだ。
裁判に関わる職業なども、他人の考えていることが分からないことと、不信と恐怖によって成り立っている。
羅生門」や「12人の怒れる男たち」などを見るまでもなく、事実は1つではない。人の数だけ世界が存在する。


だが、それでも根本には距離を縮めようとする働きがある。
時間を生み出そうとする働きがある。
不安と恐怖から、分離が起こる。区別を明確にする。
多分それは間違いだ。
人の生は、一度失われた統一を目指す営みである。
だから高速道路は張り巡らされ、飛行機は飛び交い、通信網が張り巡らされ、電波が飛び交うのだ。


第3の制約は、「自我」である。
人は当然だが生物である。
何を考えようとも、何をしようとも、結局は物を食って消化して排出する筒に手足と頭がくっついたものである。
衣食住はなくてはいけない。衣食が足りなければ礼節を知ることはできない。


しかも、自然界ではかなり弱い生物である。
爪や牙などの武器も持たず、本能も狂っている。
しかもネオテニー、つまりは未成熟な猿である。
先祖はさぞかし苦労したに違いない。
落下する夢は木から落ちる恐怖の名残だという話も聞いたことがある。
根本に弱さの感覚がある。不安と恐怖がある。


そこからきっと力への意志が生まれる。
石を使い、金属を使い、武器を作り、機械を作って、肉体の弱さを補おうとする。
補うだけでは足りず、どこまでも力を得ようとし、得た力に得意になり誇示しようとする。
所有が生まれる。物や金や知識をためようとする。
支配が生まれる。他人や動物や自然を操ろうとする。
戦争が生まれる。相対的に力を持った者同士が支配をめぐって争う。
そして賜杯をめぐって競技で争う。


戦争からオリンピックからサッカーからゲームから企業での交渉から日常での関係まで、世界には支配−被支配をめぐる争いで溢れている。
強迫的に力を求めるのは、人がまだ、昔受けた傷を忘れていないからかもしれない。
けんかして泣き出した子供が手加減なしで暴れるように、人はまだ自然への復讐の途中なのかもしれない。


生物的な制約は、自我によって補われようとしてきた。
自我は厳しすぎる自然に対する人工的な構築物であり、セイフティーブランケットである。
しかしそれは「間に合わせ」に過ぎないかもしれない。決して万能ではない。


自我は恐らく言葉によって生まれた。
人は、突然訪れる形のない恐怖である「死」を、言葉によって定義づけようとした。
形のないものが最大の恐怖である。
言葉による定義とは、全てを明確にし、名づけ、区別し、不安や恐怖を軽減しようとする試みである。
しかし、「死」を明確にすることによって、言葉は時間を産み出してしまった。
死に向って一方向に流れる、限られた時間というものの存在を、明らかにしてしまった。
言葉はそれ自体に時間を含み、時間の流れを作り出す。
明確にされた時間。
その先には明確になった死がある。


言葉は恐怖をなくそうと全てを明確にし、その根源をも明確な、身近なものにしてしまう。
明らかにするのと同時に、隠さなければいけない。
気づかないフリをしなければいけない。
だから言葉と自我は回りくどく、自己欺瞞的で、不明確である。


また、言葉はコミュニケーションのための不完全な試みである。
コミュニケーションの必要性は、個々の違いに目を向けたゆえの孤独感から生まれた。
相手のことを完全に理解することはできないから、不完全な言葉を代用品にしようとした。


しかし、個々の違いもまた、言葉によってより明確にされてしまう。
言葉=自我は定義するものである。区別するものである。自他の違いを作り出すものである。
言葉は、コミュニケーションへの試みでありながら、個々の違いをよりはっきりさせてしまう残酷なものである。


自我は自分だけが生き残ろうとする。
自然界で弱者である人は、個を守ることで精一杯である。
自我の根本には不安と恐怖がある。
自我とは肉体が弱い者の支えである。
だから、自己を飾ろうとする。誇示しようとする。奪い合おうとする。どこまでも拡大しようとする。他者と比較しようとする。
比較対象は現実であったりイメージであったりする。非現実的である。


自我は、かつては有効な武器であったと思う。
力もなく孤独で不安な人類を生き延びさせるために必要な唯一の武器であった。
しかし、今や制約になりつつあるのかもしれない。


過去のトラウマはもう捨ててもいいのかもしれない。
強迫的に死や不安や恐怖や孤独から逃れようとしなくてもいいのかもしれない。
古くなった道具はもう捨ててもいいのかもしれない。
少なくともこの国において、文明国において、新しいスキームを選択してもいいのかもしれない。
そろそろ恐怖や不安や孤独を前提にした関係ではなく、愛や信頼や共感など(って並べてくとうさん臭いけど)、そういったものを前提とした関係を作り出してもいいのかもしれない。
言葉偏重をやめ、自我偏重をやめて。


自我はもはや主役ではなく、操縦して利用すべき道具なのかもしれない。
奥底で、全ての人は繋がっているのかもしれない。
全ての本質は一つなのかもしれない。
区別は不安や恐怖から言葉と自我が作り出しているゲームに過ぎないのかもしれない。


全ての制約を取り払った時に残るものが、本質なのかもしれない。
時間や距離や区別や言葉や自我を取り払った世界。
それは毎晩見る「夢」のような世界だ。
言葉が生じる以前の、無意識の、流動的な、自他の区別もない世界。
自他の区別もなく、神と人の区別さえ不明確な世界。
多分、本質や目的や意味やゴールはそんなとても近い所にある。


昼間見る夢からも、醒めたほうがいいのだ。
いや、もしかしたら毎晩醒めているのかもしれないけれど。
夜の世界の真実を昼の世界にも取り入れて、そこでバランスを取ること。


それこそが老子の「道」であり、かつてシャーマンの行ってきたことであり、ジョン・レノン手塚治虫やその他の本物の芸術家が表現してきたことであり、「ラークサイド・オブ・ザ・ムーン」なのだ。



不完全な言葉を不完全な能力で操りながらこんな文章を作ったりするのも、もしかしたら自意識のせいかもしれない。
言葉によって世界を把握し、力を感じたいのかもしれない。
言葉を使って何かをしようとする時には常にそういう自問自答がある。(まあいいけど。)


自我は自己欺瞞的だから、なかなか気づけない。
自我を捨てよと自我が言う。


前近代的」な、相互監視のムラ社会は、実は進んでいたのだろうか。
同質性や仲間意識を感じられることは優れたことなのか。


過剰な自意識が世界を切り刻む。
エネルギーを持て余して、秩序を作り出そうとする。つまりは区別を作り出す。
そして言葉を捨て、自我を捨てよと叫ぶ。
自我の自殺願望だ。
自己矛盾。説得力がない。


人が本能を持っているとするのなら、種の保存が第一だ。
その次に、個体の維持がある。そのためにあるのが自我だ。
自分が生き残ることによって種が生き残る。
だとすれば、個人主義より全体主義が正しかったのか。


しかし天敵がいなく、自然さえも手なづけたいま。
増えすぎた人類にとって、互いに殺しあうのもまた本能か。
子供を産まないのも本能か。
魚の増えすぎた水槽で、魚は一定数を越えると減少に向かう。
それと同じ本能か。
いるかの集団自殺のように。
人は自らを特別と思いたがる。
しかし恐らく見えないだけだ。
設定されている。本能は生きている。


自然とともにあることが正しい。
そして芸術を産み出す事が正しい。
それこそが時間を越え、距離を越え、生物を越える。
創造すること。
それは永遠と神の属する領域だ。