エネルギー

現実の中に留まり、そこで負荷を感じること。
時間を感じること。
没入すること。
集中すること。
流れに乗ること。
流れを感じること。
味わうこと。
経験すること。
それが時間というものの中に投げ込まれた、生の目的だ。


では、例えば瞑想などをして、自我を超えた地点に突き抜け、時間を超越した世界を求めることはどうなのだろうか?
自分のいる場所を確認するためには必要かもしれないが、そこに留まり続けようとしてはいけないのではないかと思う。
そこで自我を超えた気分を得たとしても、他人の役にも立たず、自分のためだけにやっているなら、それは自己満足で、それは自我の強化でしかないのではないか。
他人の役に立たなくてはいけないのではないか。
かと言って、エゴ剥き出しで争うことが良しとされる世間の競争の中に没入することが良いことなのかどうか。
ギャンブルの緊張と神聖さの中に没入することが良いことなのかどうか。
人の役に立つ生き方とはどういうものだろう。


生命の目的は、エネルギーの「消費」にある。
生は、自らは秩序を保ちながら、周囲のエントロピーを高めていく。
カオスを産みだしていく。
環境を汚していく。


木を切り倒し、石炭を燃やし、石油を燃やし、エネルギーを使い、必要以上のものを食べ、建物を建て、物を作り、消費し。
道路を延ばし、橋を作り、鉄道を引き、飛行機を飛ばし、距離をなくし。
ラジオやテレビの電波を飛ばし、電話線を張り巡らし、携帯電話の電波を飛ばし、メールを飛ばし、インターネットで情報を張り巡らし。
歌い、踊り、演奏し、物語を作り出し、絵を描き、映画を作り、形を創り出し。
法則を見つけ出し、計算し、記録し、分類し、名付け。
走り、跳び、投げ、打ち、蹴り。


人は物を生産し、消費し、距離をなくし、時間を産み出し、コミュニケートし、芸術活動をし、学問をし、スポーツをすることによって、エネルギーを消費する。
過剰なエネルギーを消費する。
地球を消費する。


人は、生命は、動いている時にしか安定を保てない。
鉄が錆び、熱が拡散していくエントロピーの法則の中で、それを加速させるエネルギーの流れの中で、自らが安定している。


“行く川の流れは絶えずして…”
川が安定していられるのは、絶え間なく流れている時だけだ。
留まることはできない。
絶えず流れ、変化し、変化を生み出さざるを得ない。
動きつづけてなくてはいられない。


生命の存在は地球の熱と関わっている。
地球の熱のバランスを取るために、生命は存在している。
20世紀後半、地球に過剰なエネルギーがあった時代、人はそれを消費するために必死に増え、働いた。
その動きは「資本主義」というものの中に現れ、その自らの自己拡大のルールに従って加速した。
一度加速した動きは、誰にも止められなかった。

しかし、行き過ぎたのかもしれない。
地球は消費されすぎたのかもしれない。


ブレーキは様々な形で現れる。
森林破壊として、オゾン層の破壊として、石油の枯渇として、二酸化炭素の増加として、地球温暖化として、公害として、エイズの流行として、ペストの流行として、狂牛病として、花粉症として、アトピーとして、免疫力の低下として、戦争として、少子化として。

それらは一見それぞれに関わりあいがなく、独自の因果関係によって生じているように見えるけれど、それらは「神」の織り成す圧倒的な流れだ。マトリクスだ。

膨大な流れの織物に現れる根源的な、本質的なメッセージは同じだ。
人は増えすぎた。
これ以上増えてはいけない。
エネルギーの消費量を減らさなくてはいけない。


例えば、少子化にはいくつか原因が考えられる。
女性の社会進出。その背景には男女平等の人権思想の高まりがある。電化製品による家事労働の負荷軽減がある。晩婚化がある。消費生活に慣れ、親元での生活の方が楽になっている。
産業が知識型になり、高学歴が必要になる。少数の子供に高い教育をするようになる。
医療の進歩により子供の死亡率が低下し、多くを産もうとしなくなる。
不況で将来に対する不安がある。

原因は一つではない。
いくつもの要素が絡まりあい、そして一つの方向を指し示す。
人々の価値観や雰囲気も変わる。
いや、まず価値観や雰囲気から変わっていく。


20世紀、物質の時代には消費が美徳であった。物に囲まれ、使い捨てることはかっこいいことだった。
しかし、過去には禁欲と質素な生活が美徳であった時代もある。


世界は上昇と下降のリズムの中にある。
今また時代は変わる。
変わり目はすでに過ぎた。


かつて(今も)企業は効率を追求し、スピードを速め、より少ない人で多くの物を作ろうとした。
余った人は別のことを始めた。
やることはいくらでもあった。
人手を減らすために機械化が進み、機械はより多くのエネルギーを必要とした。
効率化はそれ自体新たな需要を喚起した。
世界は多様化し、一斉にエネルギーを消費した。


しかし気づいた時、必要なものはもうそれほどなかった。
もうエネルギーを消費する必要はなかった。
エネルギーは枯渇しかけていた。(エネルギーとは「自然」でしかない。)
余った人には、もうそれ以上やることがなかった。
企業はそれでも効率を追求していた。
人は常に余り気味で、やることがなくなりそうな人達は必死でやることを作り出しては、気づかないふりをしながらその中に埋没していた。
皆で支えあい、お互いは必要なのだと言い聞かせあっていた。

しかし、もはや右肩上がりの成長はありえない。賃金も増えない。
そうであるなら、別にこれ以上必要な物もない以上、今あるものの中で、現状維持の生活を続けていくしかない。


別にそれならそれでいいのではないか?
自分のスタイルを変えればいいのではないか?
状況が変わっているのに、需要がないところで右肩上がりを続けようとするから無理が生じる。
企業の論理で無理に海外に市場を求めても、摩擦が生じるだけだ。

それは企業のエゴだからだ。
資本の論理を推し進めようとすると、最後には戦争になるしかない。
地球上の限られたエネルギー(石油、自然、市場)を誰が使うかということになれば、奪い合いが起こるしかない。


自分に疑問を持たず、戦いに勝つことに疑問をもたない無神経な体育会的なスタイルが腹立たしいのはそれだからだ。
オヤジ的な価値観。
彼らはエゴを肯定し、自分が勝利することを肯定し、相手が負けることを肯定する。
多くの企業は体育会的に動いている。
今、企業の論理は需要の増加を望み、無意識に戦争を望んでいる。
オヤジは戦争を好む。


いい加減、スタイルを変えなくてはいけない。
歴史の過ちを繰り返してはいけない。
進歩しなくてはいけない。


人は生きていく上でエネルギーを取り込み、放出し、変化をし、変化を生み出さなくてはいけない存在だから、どうしても食事をしなくてはいけないし、他の生命を奪わなくてはいけないし、環境を「破壊」しなくてはいけない。
しかし、その量を減らすことはできる。
スピードを落とすことはできる。


エネルギーは非生産的なことに使うこともできる。(例えばこうして。)
あえて遠回りすることもできる。
残された自然は、心の奥底である。
そこを探検することもできる。
瞑想し、明晰夢を見続けて。


…では結局、それでもいいのだろうか?
人の役に立たず、エネルギーの無駄遣いをすることが、結局は人のためになるのだろうか。
冒頭に否定したこと、自分のためだけにエネルギーを使うことも、欲望のために環境破壊をするよりも「人の役」に立つのではないか。

思えば、中世の宗教はそういう役割を果たしていたのではなかったのか。
禁欲生活を送り、労働を悪とし、私利私欲を醜いものとしたことによって。

しかし、中世の無知と迷信の時代に戻ることが良いはずはない。
魔女狩り」と停滞と教会の支配が、望ましいはずはない。


繰り返す歴史のリズムのなかで、進歩があるとしたら、それは知識を得ることだ。
知ることだ。
歴史の、法則の、芸術の、言葉の、情報の蓄積が進歩だ。
それらがリンクし、また新たなものが生まれる。
過去の失敗から学ぶことは我々を賢くする。
それが進歩の可能性だ。


そして様々なものを生み出すこと。
自身の物語を作り、自身の音楽を奏で、自身の流れを作り出す。
それが他者と出会い、重なり合い、リンクして、また新たなものが生まれる。
多様性が進化だ。


多様性とは愛だ。
愛は生み出す力だ。
愛とは多様なものを認めることだ。
その多様さを、個性を他と区別して認め、楽しむことだ。


根源的な、一つあるもの、存在のエネルギーは、この世界に様々な形を取って溢れ出す。
世界への多様な現れ方のそれぞれを愛すること。
違いを愛すること。
個性を愛すること。
根源的な一つのものが、様々に形を変え、それらが複雑に絡まりあって流れ行く世界は美しい。
それは圧倒的な曼荼羅であり、万華鏡である。
世界は波打ち、シンクロし、重なり合って流れていく。


効率の追求は画一化に向かう。
画一化とは「死」だ。

生とは根源的なものの多様な現れであり、死とは多様なものの元ある場所への収束だ。
生が波であり、波の重なりであるとすれば、死とは海そのものだ。


生と死はつながっている。
生と死は同じものだ。
死は生を生み出し、生はいずれ死に至る。
生は円環を描き、リズムは繰り返される。
しかし、死は生の目的ではない。
統一は目的ではない。


生とは戯れだ。
生は過程でしかない。
多様な波の戯れだ。
形を、変化を、楽しむべきものだ。


だから、統一の世界を感じる瞑想の世界は、死に属するものだ。
直接求めるべきものではない。
誰もが放っておいても最終的にはそこに至る世界である。


過程が重要だ。
過程こそが生である。
海ではなく、波が、海に至る川の流れこそが生である。
静寂ではなく、音楽が生である。
世界そのものではなく、その一部を表現した芸術が生である。


真理は単純なものだ。
死の単純さを持っている。
とてもシンプルで、身も蓋もない。
強烈な光と影そのものだ。
砂漠に降り注ぐ太陽のようなものだ。


自分が自分であることの意味。
一度きりしかないことの意味。
あらゆる生命には、あらゆる物には、同じものが流れている。
根源には全てを生み出す、ある力が働いている。
それを愛であると言ってもいい。
我々の底には愛が流れている。
それは我々を前進させ、変化させ、発展させる力だ。
後ろから我々を照らす光のようなものだ。


瞑想によってその光を垣間見ることはあっても、立ち止まらず進まなくてはいけない。
我々は一周し、やがてまたその光の中に還る。
我々は同じものに貫かれ、ビジョンを共有しながら、共感を感じながら、それぞれの道を進む。


時に交差し、共鳴しあいながらも、完全に独りで、独自に進まなくてはいけない。
それが愛に対する責任だ。
それがこの世界の成立ちだ。


同じであることでなく、異なっていること。
しかし切り離されているのではなく、奥底で繋がっていること。


ビジョンを共有している時、独自に動くことが、そのまま全体のためになる。
世界は機械でなく、一つの有機体である。
我々は機械の歯車ではなく、生物の器官である。
独自に考え、行動し、それが全体の働きの一部になる。
我々は取替不可能であり、だから我々は自分に責任を持っている。
その時その場所を占める存在は常にただ一つしかなく、圧倒的な責任を背負っている。
世界の極めて小さい一点ではあるが、その場所の全責任を負っている。


我々は瞬間ごとに選択を迫られ、その選択の責任は全て自分に帰する。
それが意識を持ち、世界を見る権利を得た我々の義務である。
 

さて、それらを見てきた上で、改めて我々はいかに生きるべきか。

実業においては、物質の生産とエネルギーの消費のスピードを低下させる。
効率の追求は企業の本能であるから、すぐにはやめられないけれど、一方で効率を追求しつつ、他方では顧客の望みに個別に対応すべく、多品種少量生産を追及する。
流れ作業をやめ、職人のような作り方にする。
物に付随する各種のサービスに、ソフトにエネルギーを集中させる。
形のないものに価値をつける。
企業は無理な拡大指向をやめる。
環境を、自然を、エネルギーを犠牲にした自己拡大を抑える。
徐々にスピードを落として安定化を図る。
現状を維持しながら利益を追求する。
利益は株主と従業員と社会に還元する。
環境保護に還元し、文化振興に還元する。


個人は企業にのみ所属し、自己を企業に重ね合わせることをやめる。
企業の成長が自己の成長ではないことに気づく。
物質の消費を快と感じることをやめる。
生産と消費の激しい回転から降りる。


エネルギーは、「文化」に注ぐ。
芸術と、学問と、スポーツに。(スポーツと言っても、大規模な開発を必要とするようなゴルフやスキーじゃなく、準備も場所も要らないサッカー、バスケみたいなものに。)
「コミュニケーション」に注ぐ。
携帯やメールやインターネットに。
「無償奉仕」に注ぐ。
ボランティアや非営利団体に。


そう考えてみると、なんのことはない、こんなことは今の世界の動きそのままだ。
すでに時代は変わっていて、そのように動いているのだ。
みんなこんなことは知っているのだろうか?
こんなことを考えている人は、少なくとも企業の中にはいないように見える。
それでも、企業もまた大きくはそのように進んでいる。
きっと、それぞれの独自の事情と因果関係に従って行動すると、そのようになるのだ。


そのようにして、メッセージは世界に現れる。
(いや、あるいはそんなことを考えている人はいくらでもいて、そういう一部の人達が、企業の行動の流れを作り出しているのかもしれないけれど。)

我々の世代でさえ、企業に入る前はそのことをどこかで知っていた。
本当に、我々の世代は狭間の世代であり、新しい世代はそんなことは最初から知っているのだ。


だから、進化は新しい世代から起こる。
こんなことにも気づいていないのは、古い世代と、古い世代に属する企業だけだ。
だけど、古い世代のものは、変化に気づかないから始末が悪いのだ。
気づかないものはいつまでたっても見えないから、始末が悪いのだ。
そして古いものは滅びる。


狭間の世代なんていうものは、違和感を感じつづけ、その正体を探ろうとし続け、無駄に三周くらいしてやっと言葉にしてみてから、気づいたら世界の多数派はとっくにそのようになっていて、そうしてみると単に効率の悪い乗り遅れた傍観者に過ぎないというような、役立たずなのだ。
まあ、狭間にいていろいろ感じられるのは面白いと言えば面白いことなのだけれど。


人はエネルギーのやり取りをしなければ安定していられない。
流れつづけなければ安定していられない。
だからエネルギーを向ける対象を変えることだ。
資本から、経済からシフトさせる。
遠回りさせる。
効率を落とす。
多様化させる。
エネルギーを0と1に切り分けて、デジタル化させて、どこかのサーバーに放り込む。
自然を直接消費することをやめ、なるべく遠回りさせる。
ネットワークを繋いで、その中を遠回りさせてグルグルと回す。
脳は無駄を創り出し、無駄の中に我々は消費する。
バーチャルな世界で消費する。


しかし、汚れたエネルギーはなくなることはない。
どこかに放出されなければならない。
閉じられた輪の中で、「汚れ」は、「闇」は、「影」は、「歪み」は、弱い所にぶつけられる。
ババ抜きをしても、最後にジョーカーはどこかに残る。
無意識に押し込んで、なかったことにしても、いつの日か別の形で外に現れる。
「王様の耳はロバの耳」と穴を掘って叫んでも、いずれその言葉は笛の音になって街じゅうに響き渡る。
闇はある日一気に噴出する。


それぞれが、それぞれの場所で汚れを、闇を背負い、その重さに耐え、それを味わい尽くし、解決し、なくしていかなくてはいけない。
安易に汚れを外の世界に捨ててはいけない。
「外」などなく、いずれはどこかに現れるのだから。


極めて個人的なストレスや、重さの感覚や、混乱した感情などは、汚れであり闇であり、廃棄物や公害と同じ性質のものだ。
それらはいずれも時間をかけて元に戻さなくてはいけない。
癒されなくてはいけない。
浄化しなくてはいけない。


物質の浄化と、精神の浄化。
個人ができることは、自らの中の汚れを撒き散らすことなく、受け止め、浄化することだ。
人格を高め、精神を向上させること。
それにエネルギーを注ぐ。


隠された闇に光を当てること。
意識すること。
存在を認めること。
全ての存在するものをそれとして認めること。
それは愛の働きだ。


そして、全てが変化し、曖昧な中で、「All you need is love」というメッセージだけが常に確かな真実として残る。