「イワン・イリッチの死」(トルストイ)

分かりやすく、感動的。
1884年の作品が「分かりやすい」ということがすでにすごいことだ。主人公の裁判官の生涯には、普通に共感(もしくは理解)できる。
彼の生涯は、普通に地位や名誉を求めるもので、向上心にも溢れている、悪くないものだ。というか、人もうらやむようなエリートの生活と言えるのかもしれない。サラリーマンとしての一つの理想と言える。
しかしそれは、「世俗的。」と一言で言われてしまうような生活でもある。その特徴は、死を隠す上品さとセンスにある。
それは、思い出してみると、私が中高生の頃、「世の中は建前ばかりだ」と嫌悪した世界であったりもする。うわべだけの会話。本音はどこにもなく、悩みは隠す。いや、そもそも悩みなどはないのだった。競争をしているのに表面上は仲良く、しかし重要なことは何も言わない。それが上品さと呼ばれるものだ。
きっと、多くの人が、それを憎んだ時期があるのではないだろうか。そして、そのうちに忘れていくのではないだろうか。


最後、死に直面したときに、それらは誤りだったと主人公は悟る。孤独と絶望に襲われる。
しかし、やがて他人を哀れむことができるようになる。その時、死はそこになく、光がある。
幼い頃にあった光は、生活の中で次第に消えてしまう。しかし、最後の時に、再び光はそこに現れる。それは価値観の転倒だ。
それから120年が経ってもまだ、いやますます、世俗的な生活は強力で、価値の転倒などはなされていない。


けれど、だからと言って、進歩していないということでもない。
世間的な価値を捨てることは、とても難しいことだ。世捨て人になっても後悔はないのかと言えば、当然あるし、いずれにしても食っていかなくてはいけない。世俗を捨て、精神的に生きようとしても、皆がそうしたら、社会は回っていかない。死は誰にでも訪れるけれど、それでも死ぬときまでは生きていかなくてはいけない。
それならば、その時までは、世間でより良く生きることが大切なのだし、世界は多様な、具体的な世間の中にしかないのかもしれない。
「光」は一度失って、最後にもう一度手に入れるからこそ感動的なのであって、最初から最後まで持っているのだったら、その間の生きている時間はただの無駄だ。
やはり、この本のように、世俗的生活という遠回りをする必要があるのかもしれず、だから、この本も人に感動を与えることができる。
でもそうすると、人生というのは長い暇潰しのようなもので、たいした意味などはないということにもなるのだったが、別に意味がある必要もないのかもしれなかった。


光を感じるためには、闇が必要だ。
悟りを得るには、一度真理を忘れることが必要だ。
旅行を楽しむには、距離が必要だ。
ギャンブルを楽しむには―ドキドキしたり、ほっとしたりするためには―時間が流れていることが必要だ。
我々の人生というものは、全てを理解して時空を超越している「神」が、自ら記憶喪失になって演じているゲームのようなものだ。
だったら、それぞれ、自分の役割を黙って演じていれば良いのかもしれなかった。


だとすると、私の役割は、「分かり切っていることをわざわざ言葉にして芝居を台無しにする役立たず」といったところか。


もはや書評でもなんでもないが、
(☆☆☆☆☆)
イワン・イリッチの死 (岩波文庫)