「海辺のカフカ(下)」(村上春樹)

再読する。
やはり、村上春樹の最高傑作であると思う。


世界を突き動かす大きなもの―「運命」のようなもの―と、その道具としての人。
完全に受け入れ、受動的になることで、「運命」は向こうから訪れる。そして、本当に意味のある「役割」は、そのようにして一方的に訪れるものなのだろう。ナカタさんに訪れたように。
それは、誰に評価されるわけでもなく、補償があるわけでもなく、暴力的に、一方的に訪れるものだ。
ナカタさんはそのようにして運命に選ばれた結果、空っぽになってしまったけれど、ホシノさんの言うように、世間の中で機械的に生きる我々も、空っぽなのかもしれない。
そして、いずれにしても、大きなものにとっては、どちらが良いとか悪いとか、意味があるとかないとかいった価値判断はないのだった。


運命に魅入られてしまった人は、「向こう側」の世界、死に近い場所にいて、美しく、純粋で、周りに静かな、良い影響だけを与えながら生きている。
あるいは、閉じられた2人だけの完璧な世界が崩れることを恐れて自ら「向こう側」に行った佐伯さんのように、その代償として現実に混乱を与えながら、無意味に生きている。


そういう、向こう側と近い場所にいて、いつもぎりぎりの所で現実の側に留まっているのが、村上春樹の描く主人公である。
肉体を鍛え、秩序と清潔さを保つことによって、死から自分を守る。いくら不器用で、現実の中で生きにくくても、生き残る強さを持っている。
そして、一度は向こう側に行くが、現実に戻ってくる。
ダンス・ダンス・ダンス」では、エレベーターを通って、「ねじまき鳥クロニクル」では、井戸の底を通って、そして本作では森を通って、自己の内部の投影としての迷宮を通って、向こう側へ行く。それらは、この世とあの世をつなぐ通路であり、自分の奥底へ通じる道でもある。
それは通過儀礼の旅だ。人は、旅をして戻ってくることで成長する。


そしてカフカ少年は、そこで、自分を捨てた母を許すことを学ぶ。
それは、あるいは村上春樹自身の課題なのかもしれない。彼の作品にはほとんど母親的なものが出てこない。幼い頃、象徴的に母親に捨てられた体験を持つのかもしれない。
理解し、許すことは、世界の浄化につながる。それは、一人一人が向き合わなくてはいけない課題でもある。それぞれが抱える傷を、痛みを、闇を、怒りを、他者に投影するのではなく、自分のものとして受け入れ、理解し、そして許すこと。
それはとても辛いことだけれど、浄化の涙は流される。そして、「知っている人」は、仲間はどこかにいる。自分の場所は、現実の中の、どこかにある。
この物語では、そのような救いがある。
この物語には、運命と、冒険と、死と再性と成長と受容と浄化と救いとがある。


それから2年後に「アフターダーク」は書かれたけれど、そんなにわずかな時間で、再び向こう側の奥深いところまでダイブすることはできないだろう。それは精神的にも体力的にもきついだろうし、戻ってこれなくなる。
やはり、アフターダークは、あのように現実に近い場所の、軽い作品になるしかなかったのだろうと思う。
そして、村上春樹は、「海辺のカフカ」で、とても深いところに行き、そして自分の問題に決着をつけたのだとしたら、それ以上書くべきことはないのではないか?
「作家としての死」とは言いたくないけれど、後は、現実世界の細かいところを書いていくしかないのではないか。アフターダークはそのための習作のようなものではないか。
などと、改めて考えるのだった。

(☆☆☆☆☆)
海辺のカフカ〈下〉 アフターダーク