退屈と非日常

つまらない。
みんな右のものを左に運んだり、左のものを右に運んだり、どうでもいい情報を伝え合ったりして、時間とエネルギーを消費しているみたいだ。
そうして稼いだはした金は、ギャンブルにつぎ込んで蕩尽する。
何も産み出さない。何も変わらない。退屈だ。


そう、よく分かっている。意味などないと思いながらも、その中に飛び込めば楽しいってことは。
意味など考えなくなり、電源がつながったように体の中を情報の電気が通り抜け、充実感や参加している感覚を得られるってことは(※)。
しかし、一度そこから離れ、冷静に見ると、それは目隠しをして大騒ぎをしているようなもので、やはり何も産み出さない。何も変わらない。退屈だ。
忙しさの中に紛れて喜怒哀楽のリズムとメロディーを感じるべきか。敢えてのるべきか。(※)


何をすれば楽しいのだろうか。(って考えてるのが不幸だ。)
物欲による快感は、二十歳過ぎに中古の自動車を買ったときがピークだった。
それから10年近く、たいした快感は得られない。
パチンコは最初の数回で飽きた。
最初に大当たりしたときには興奮したが、2度、3度と繰り返すと、快感は急速に薄れ、ただの同じことの繰り返しになった。


快感はインフレを起こす。
常に、より大きな刺激を求める。
後戻りはできない。

しかし、インフレはどこまでも続きはしない。
想像力の限界と、それを感じる肉体の限界。
それはすぐに訪れる。
そして飽き飽きする。


音楽で言えば、サビで解決するための動機のひっぱり(「ためてためて、盛り上がる」という「昴」や「みちのく一人旅」や「第九」のような)というパターンにはいずれ飽きが来る。
新鮮なサビはそういくつもあるわけじゃない。
コード進行でだいたいパターンは読めてしまうのだ。
「またこのパターンか。」
「目標の設定と達成」の人生はそんなものだ。


では、クラシックのような複雑さを学ぶか。
一筋縄では行かないひねくれたパターンに味わいを見出す。

もしくは忙しさの積み重ねにしびれ、テクノのようにハイテンションになるか。


でも、いずれにしても、この世界には真に大切なことなんてないみたいだ。
企業は「右から左へ」の仕事の集まりで、本当に創造的なことや刺激的なことや意味のあることや神聖なことはなさそうだ。

神聖さは先の分からないところにあるんだろうと思う。
企業の中では例えば投機の中に。
しかし、それもインフレを起こす。
賭け金はつり上がる。
最後には命を要求される。
神聖さは死に直面するところにしかあり得ないから、それは当然のことで、しかし臆病な俺は、いやまっとうな俺は、そうやってエスカレートさせようとは思わない。


緊張すること、没入すること、参加すること、集中すること。
快感を得るためにはそうすることが必要で、みんなそうしているんだが、どうも刺激に慣れすぎて、飽きてくる。
緊張感が続かず、怠惰な気持ちになってくる。
緊張や集中を強いるべきものは、そんなに多くはない。


生命の作り出すものは、ゴシック建築のようにごてごてしていて暑苦しく、緊張感がなくて気持ちが悪い。
生命は、最初は噴出する溶岩のようにどろどろしていてエネルギーに溢れているんだが、次第に固まり、風化して死んだようになる。
たまには新鮮な溶岩で世界を作り直さないと、やられる。
新鮮な生命のエネルギーに触れなくてはいけない。
それに触れられる場所はボーダーラインの上で、それは世界の果てだったり、自我の果てだったり、不確実なギャンブルの世界だったりするのだ。


でも肉体の限界というのもきっとひとつの果てには違いなく、単純に運動をすればいいのかもしれない。
単にストレスが溜まっている状態であり、運動不足であり、エントロピーが溜まっているのであり、流れが悪くなっているのだから、運動すればそれでいいのかもしれない。
再びエネルギーの流れを感じることができて、十分に新鮮さを感じられるのかもしれない。


まあ、そうして流れの良いときにはこんなことは考えずに、世の中を流れ、流されるわけだ。
だけど、世界を流れるエネルギーの「電圧」が弱くなる秋には、毎年こうしてつまり気味になり、エネルギーは体内で発酵して過剰な言葉が溢れ出す。
のろうがのるまいが、楽しかろうがつまらなかろうが、結局は無意味だってことはどうしても残るわけだが。
でも、それも一度のってしまえばどっちでもいいことなのだ。
意味とか重要性とかは世間の評価によるもので、正しいも正しくもない、多数決にしかすぎないのだから。


いや、それとも、瞑想をし、呼吸を整え、体の中に光を感じ、そして宇宙との一体感を感じるべく生きるか。
欲望を捨て、無駄な知識を集めることをやめ、争わず、ゆったりと在り、そしてそのうちベジタリアンにでもなるような。
なんとなくそれは「負け」だって気はするんだが。
それは「勝負」から降りることを要求する。
それはちょっと悔しい。


どこまで来たら、「もういい」と言えるだろう?
仏陀のように全てを手に入れたら?
…でも仏陀でもなんでもない庶民は、なかなかそういう境地には至れない。


「あのまま生きていれば…」
夭折した芸術家なんかが惜しまれながらよくそう言われるが、そのまま生きていてもスランプに陥るかも知れず、凡人として終わるかもしれない。
それよりは遅咲きでも晩年に素晴らしい作品を残すことの方が、はるかにすごいことだって思う。

つまり降りたらそれで終わりだってことだ。
降りるなら全てを捨てなくてはいけない。
「ここまで来たのだから」なんてことは自己満足にもならない。
そんなことはどこまで行っても言えない。
ただ、捨てられるかどうかだけだ。


だけど、捨てたとしたって、その後にまた別の世界で別の価値観で戦って勝ち、自己満足を得ようとしているだけかもしれない。
そうだとしたら、まさしく弱者の逃げで、本当にかっこ悪いことだ。
にもかかわらず、なんでこんなにこだわるのかと言えば、それはやはりインドで「神秘体験」風の体験をしてしまったからだ。
インドに行かなかったら、こんなことは書かなかっただろう。
その時の価値観ではこうして書くことさえカッコ悪いことだったし、そんなことを自分がするとは思わなかった。


元々ズレは感じていた。
「今何時か知ることより、時計の中を開けて見てみたい」と思っていた。
話したいことは、野球やサッカーや競馬や政治や経済や身近な人間関係の話なんかじゃない。
そんなことはどうでもよかった。
もっと、本当のことが知りたかった。
世の中を動かしているしくみや意味が知りたかった。
誰も知らないことを知りたかった。
この世の不確かな全てを知り、言葉に置き換えたかった。
言葉にして知ることはそれを支配することであって、そうして世界の全てを支配し、手に入れたかった。(きっとなにかの恨みだろうが。)


全てを言葉にして支配するために、自分はバランスを取り、世界を客観視しつづけなければいけなかった。
自我は常に強くあらねばいけなかった。

十代半ばからその傾向は強くなり、大学卒業の頃には自分の中である程度完成に近づいていた。
十代の始めのころに感じていた不安や怒りには言葉が与えられ、それらは説明づけられ、自分は間違っていなかったと思った。
「漠然とした不安」は、本の言葉によって「把握された疑問」になり、そしてその答えは次々に明らかになった。
眼から鱗が落ちる体験を何度もした。
目の前が何度も明るくなった。世界が広がった。
世界の全てを斬れるような気がしていた。
体験もせずに全てを分かったような顔をしているのは嫌な奴には違いないが、それは数年間に及ぶ内面の強烈な欲求に従った結果だった。


しかし、それがインドでの夜の一発の体験で吹っ飛ばされた。
感情の爆発、迸るイメージ―実際の「体験」の前に、言葉はあまりにも無力だった。
人生観はあっけなく変わった。
言葉で構築された世界にはひびが入った。
その裂け目は大きく、それまで見えなかった「あっち側」の世界が流れ込んできた。


言葉を重ねて「分かった」ようなことよりずっと大きな「分かり」が、一瞬にして体を貫いた。
それは雷にうたれたような体験だった。
体に今まで流れたこともないような量の電流―情報の電流が流れ、それは圧倒的すぎて言葉にならなかった。
今まで自分は間違っていたということは分かった。


人とつながり、体験し、感じなくてはいけないことが分かった。
言葉で語られるような、目に見える「客観的な」世界なんて、世界のごく一部でしかないってことが分かった。
世界はあまりにも見えないところでつながっていて、リンクは張り巡らされていて、圧倒的に関係しあっていた。
世界は曼荼羅だった。
全てを動かしている圧倒的なルール(存在)があった。
全てがつながっていて、全てがずっと示されていたことも分かった。
一瞬のうちにそんなことを深く理解した。


もちろんそんな体験が相対化できることも分かってる。
脳内で伝達物質が増え、今まで自我意識を守るためにガードされていた無意識の領域の情報(記憶)が一気に溢れ出したってこと。
脳内の記憶は圧倒的で、イメージは膨大で、言葉には置き換えられない。
全てがつながっている「世界」とは自分の脳が産み出す「世界」であり、内面世界がすべてつながっているのは当然のことだ。
今まで見て、聞いて、読んで、体験したことは、忘れたと思っていても案外深いところに残っていて、それが一気に意識の領域に上ってきたら、圧倒的な理解が外部から押し寄せてきたと感じることはあり得るだろう。
自分の知らないことはないものとして、世界の全てが分かったという気になることはあるだろう。
脳は、曼荼羅状の、渦巻き状の、光の渦のパターンを持っているのかもしれない。


しかし、そうやって相対化しても、それを越えるほどに「体験」は強烈だ。
結局は、誰もが自分の脳の作り出す幻想の世界から抜け出すことはできない。
「マトリクス」や「12モンキーズ」のイメージ。


誰もがそれぞれの夢の世界を生きている。
主観が爆発すれば、残りの世界は全て敵に回せる。
強烈な体験があれば、人はどんな集団にだって深く帰属できてしまうんだろうと思う。
多数決を信じるのか、自分の体験を信じるのか。
感覚にだまされているとしても、やはり体験はリアリティーを持っている。
感覚だけがリアリティーを感じ取る。


「世間」の拘束力が弱まっている今、独自の価値観を信じることは比較的簡単だ。
また、閉塞した時代は変化を求めている。
世界の果てから新たな情報をもたらすものを求めている。
変革を求めている。
タイミングがよかったとも言えるし、世界と自分は常にリンクし、影響を与え、与えられて生成しているものなのだから、当然だと言えるのかもしれない。
幻想の中で、複雑な世界はいくらでも単純化され、意味付けられる。


いずれにしても、そんなことが見えてしまうと、この世界に、というよりも企業の中に、たいして重要なことなどないと思ってしまう。
そうすると、緊張感が持ちづらい。
敢えて忙しさのリズムの中に飛び込むのも、流れから抜け出すのも、どっちでもいいような気がしてくる。
重要だろうと何だろうと、充実して楽しく過ごしたいけどね。


「会社で何かを変え、残したい」とかそんなことに大きなこだわりを持っている自分がいて、でもたいしたことではないと思う自分もいる。
たいしたことはないと思うのは自分をごまかしているせいかもしれないと思う自分がいて、本心の隠されている無意識の世界を知るために、もっと夢を見たり瞑想したりしたいと思う自分がいる。
どこにいても同じだと思う自分がいて、世間にはもっと変化と刺激に満ちた仕事があると思う自分がいる。
転職してよりハードに働こうかと思う自分がいて、退職してより怠惰に生きようかと思う自分もいる。
定年までハードロックに仕事に生きようかと思っていた自分もいたが、どうも今のままじゃじきに退屈しそうだと思う自分もいる。
いつまでも何を悩んでいるんだと思う自分もいるが、それを楽しんでいる自分もいる。
何かを成し遂げたいと思う自分もいるし、たいした「何か」なんてないのなら、周りの人たちとコミュニケートしてその中で楽しさを見出すことの方がいいのかもしれないと思う自分もいる。


そして結局訳が分からなくなって、精神状態を高めて「シンクロニシティ」を待ち、運命の流れる方向に身を任せれば間違いはないのだと思うのだが、「それは忙しいときは忙しさの中に、暇なときは偶然性の中に逃げ込んで、決断することを避けているのでは?」と批判的な自分もいたりして、やはり訳は分からないのだった。
そして誰かによい影響を与えたいと思い、それは身近な人でもよいのだが、偶然性に頼ってネットを通すのもよいのではないかと思って文章を書いてみると、よい影響はとても与えられそうにもないような、こんなカオス溢れるナイスな文章になったりして、自意識の病気の根は深いのであって、一番いいのは、適度な忙しさのなかで、なんとなく自分は役に立っていると思いながら冗談を飛ばしつつ働いている状態なのかもしれないと思うが、そのバランスもなかなか難しいものである。