四季

かつてバベルの塔は神の怒りに触れ、人はバラバラにされた。
しかし、世界は今、再び統合の方向に向かっている。
統合とは「死」である。
時代は今、死と再生の時へと向かっている。


世界は円を描く。
循環する。
放物線は頂点を過ぎた。
そして下降線を辿る。


溜め込まれたエネルギーは、いずれ消費される。過剰は蕩尽される。
生と死のリズム。
過剰と蕩尽のリズム。
光と闇の織り成すリズム。

世界には四季がある。
時代は今、冬に向かっている。

エネルギーの効率的な消費はもういらない。
加速することをやめ、ブレーキをかけて、その場に留まりながら、成熟しなくてはいけない。
いかに限られた資源を使うかが今後の課題だ。
制約をなくすのではなく、活かすこと。
個性として、多様性として、その差を解消しないこと。
それがブレーキだ。
だから中央集権でなく地方の時代だ。


世界は、「分割」から「統合」へと向かう。
「分割」とは多様化である。
多様化は産みだす働きで、それは愛の働きだ。
「愛」と感じられる、ある大きなベクトル。
それが生の多様性を産み出す力だ。
多様性は区別を必要とする。
区別は言葉による。
人は調べ、名づけ、分類し、法則化する。
論理的で具体的だ。
アポロン的世界。
区別は白日の元でなされる。
昼の世界。
太陽、光と親和的だ。
多様な世界はエネルギーが偏在しており、エントロピーは低い。
自然はまだ手つかずで残されている。
森の多様性とエネルギー。


しかし、いずれ産み出す力はピークを迎え、自然は消費される。
流動的な力を、言葉は捉えて固定化する。
言葉によって区別され、細かく刻まれた世界は活力を失う。
言葉はむしろ多様な世界を一元化し、均質化する。


「統合」とは均質化である。
均質化は区別をなくす働きで、それは死への方向だ。
区別は曖昧になる。
言葉よりも感情や感覚、目には見えない微細な感覚が重要になる。
ディオニソス的世界。
酔いと陶酔。
音楽とリズム。
黄昏時から夜の世界へ。
月、闇と親和的だ。
世界の差異はならされ、エントロピーは高くなる。
エネルギーは消費されている。
廃熱がこもり、いずれは灼熱と極寒の二極へ。
砂漠の均質性とカオス。


しかし、再生は死の後に行われる。
闇の中で、目には見えないエネルギーがゆっくりと動き始める。
エネルギーは、密かに集められている。
月は満ち欠けを繰り返しながら、新たな生命を産み出す。
そして新たな朝が来る。
生命は花開く。


分割から統合への流れは、生から死への流れだ。
分割は生にとって制約と感じられ、生は制約をなくそうとして均質化へ向かう。
制約をなくそうと突き進む近代工業化社会は、死へと向かって爆走している。
 

制約には距離、時間、意識、文化の差異などがある。
人は距離をなくそうと、交通機関を発達させ、通信手段を発達させる。
船は行き交い、航路は伸び、レールは延び、道路は張り巡らされ、車は増え、電線は延び、電波は飛び交う。
誰もが用事があってもなくても物質を伝え合い、情報を伝え合い、エネルギーを伝え合い、熱を伝え合う。
それは地球に張り巡らされた神経回路だ。


人は時間の制約をなくそうと、スピードを求める。
生産も業務も効率化を目指し続けてとどまるところがない。
パソコンの処理速度は上がり続ける。
機械化と電気化は進み、その分余計にエネルギーを消費しながら、それでも時間を節約しようとする。
その目的は時間を節約することそれ自体にある。
だから空いた時間は耐えられない。
別に他の目的があるわけではなく、手段が目的化している。
いやそもそも「本当の目的」などはない。
時間をエネルギーで買い、エネルギーを消費することが目的だ。
 

人は自分という意識をなくそうとする。
区別された自分という意識は孤独である。
だから一体感を求める。
チームを作って仲間意識を感じ、企業でも宗教でも民族でも国家でも味方と仮想敵を作っては、仲間内の一体感を強める。
祭りでは踊り狂い、クラブでもトランスしながら踊り狂う。
サッカーの応援でも、皆が同じ色になって叫ぶ。
酔っ払って無礼講になる。
瞑想で無意識の世界に遊び、ドラッグで自意識を吹っ飛ばす。
 

人は文化の差異をなくそうとする。
生じてしまった文化の違いを埋めようと、語学を学び、地理を学び、旅行をする。
テレビは衛星放送で世界中に同じものを流すし、グローバル企業は世界中に同じ製品と同じ味を届ける。
文化は均質化する。
日本など、もうどこに行っても景色は同じだ。


そのようにして、人は制約をなくそうとして走りつづける。
エネルギーを消費し、エントロピーを高める。
ミルクは水に混ざり、宇宙は膨張を続ける。
いつの日か全てが混ざり合い、溶け合って、何の区別もなく、密度の差もない圧倒的な「一」に至るまで。


それは生命の自殺願望だろうか。
生命は圧倒的な「一」から生まれ、そして多様に花開いて、元の場所に還っていく。
完全な均質の中には、距離も時間も自他の区別も自意識もない。
それは死の世界。
あるいは「神」そのもの。
――「神」とは一なる均質と、その中に生まれた「意志」、「ゆらぎ」、「ベクトル」のようなものか。


原初の高エネルギーの状態から、世界は分割し、多様化を目指す。
それは生命の誕生時の細胞分裂
急激な成長。
季節は春だ。
 

夏になると、多様な世界は個性を競う。
それは生命なら青年時。
 

そして秋になると、世界は成熟の時を迎える。
次世代を用意しつつ、自らは滅びの予感の中、最後の輝きを見せる。
紅葉の高揚。
祭りと饗宴の季節。


そして死と再生の冬へ。
 

季節は巡る。
朝日は昇り沈む。
生命は産まれ死ぬ。
世界は同じリズムを刻む。


人と文明だけがいつまでも成長を続けるなんておかしなことだ。
資本主義は、もっと若い世界のルールだ。
季節は変わった。
若い時と同じ事をいつまでも続けようとしたら無理が来る。
いつまでもエネルギーを消費しつつ制約をなくそうとしていたら、死に向かって突っ走ることになる。


森は失われ、土砂崩れが起こり、洪水が起こり、新しい病気は次々に生まれ、戦争は起こり、少子化は進み、活力は失われる。
増えすぎた人に対して、様々な形でブレーキがかかる。
それは魚の共食いや、ねずみやイルカの集団自殺と同じこと。
 
均質化の先には全体主義があり、ファシズムがある。
熱狂と陶酔の中、全てが一つに溶け合い、そしてベクトルは統一されたまま殺戮と集団自殺へなだれ込む。
時代は今そういう方向性にある。
それを自然の摂理と言っていいのだろうか?


人は他の動物とは違う。
過去を学び未来を想定する存在だ。
予測をフィードバックして生きられる存在だ。
学び、深化し、進化しなければいけない。
自覚的に方向を変えなくてはいけない。
スピードを緩めなくてはいけない。
 

過去、景気は循環を繰返し、定期的に戦争という蕩尽は行われた。
かつて地球に文明はいくつも生まれ、滅びた。
ムー大陸はあったかどうだか知らないが、恐竜は確かに長い間地球の主役であり、そして滅びた。
恐竜にこんなにまでも惹かれるのは(いや今更惹かれちゃいないが)同じく滅びゆくものへの共感からだろうか。
 

いや、人は将来を予測し、未来を変えられる。
今や消費は地球規模で行われている。
バランスをとりながら人が生き残ることは、人のエゴだけではないだろう。
 

「スローイズビューティフル」という価値観が言われ始めている。
時間を味わい、時間の手ごたえを感じること。
外見は変わらなくても、中身は変化することができる。
内面世界へもぐり、成熟すること。


散らばってしまった熱を集める。
目には見えないエネルギーを受け取る。
汚れを背負い、浄化する。
物質から精神へ。
学問、文化、芸術へ。
そして次の時代へ。
 

新しいものは古いものの中で生まれ育ち、いつか殻を破って飛び出す。
そして世界を変える。
世界は変わる。
世界はそういう風にできている。