しりとりエッセイ1:「愛」


「愛こそ全て」などと言うが、全て愛だったら相当重い。
「いや『情けは人の為ならず』、愛とは、与えればいずれ自分に返ってくる潤滑油である。」などという意見は根本的に間違っている。
愛とは見返りを求めない無償の行為である。
自分の利益を求めずひたすら与えるものなのである。

自分のために好意を与えるというのは、愛ではない。
それは形を変えた利己主義である。
戦略的な分なおさらタチが悪いのである。
もうエゴの塊である。我利我利亡者である。(別にそこまで言うことはない。)
真の愛とはそのようなものではない。


例を挙げてみよう。
「彼はブランド品を買ってくれるから好き。お金を持っている彼だから好き。いやむしろお金が好き。好きなお金を見ているうちに最近彼まで好きになってきた。」
というのが見返りを求める愛である。多少極端だが、まあだいたいこんなものだ。


真の愛は違う。
「彼はチビでデブでハゲで口の臭い貧乏人で性格は陰険で暴力をふるうにも関わらず好き!」ということなのである。
しかも、そこに打算があってはいけないのである。
「そんな人間でも愛せる心の広い自分が好き!」などと思ってはいけないのだ。
それでは形を変えた利己主義である。我利我利亡者である。


愛は重いのだ。
一般人から見たら、相当マニアックでさえあるのだ。

船が難破して10人乗りのボートに11人乗ってしまった、なんてことはよくある光景だが、そんな時誰かに「皆が助かるためなら僕は死にます。」と叫んで海に飛び込まれたら、これは愛だが相当重い。
「1人くらいなんとかなったんじゃあ…。」と思ってももう遅い。
残りの10人の心の中には一生重さが残るだろう。
目の前で、「お前のせいだ!」と叫ばれて飛び込み自殺をされたら、これもかなり重いが、愛にはある意味、それ以上の重さがある。
我々一般人は、そんな愛の重さには耐え切れないのである。


しかし、かといって愛のない殺伐とした社会がいいのかというと、そんなことはない。

「ちょっとした好意」とか「親切」とか、その程度が良いのだと思う。
車で合流させてくれるとか。
右折させてくれるとか。
エレベーターで「開」ボタンを押しておいてくれるとか。
励ましのメールをくれるとか。
そういうちょっとした、無償の親切が一番心温まる。少なくとも僕はそうだ。


だから励ましのメールをください。<そんなオチか。