しりとりエッセイ2:「犬」


「湖のほとりで犬と静かに暮らしたい。」
そんな願望には、どうも「敗北」の臭いがする。
人間関係に疲れ、誰もいない所に行きたいという現実逃避があり、でも本当に独りになるのは寂しいという甘えがある。
社会にも自分にも二重に負けている感じがする。

ではどこに「敗北の素」があるのだろうか?
キーワードを替えて考えてみたい。


「ラスベガスで犬と静かに暮らしたい。」
状況に無理がある。番犬のドーベルマンか?しかしそれは普通「犬と暮らす」とは言わない。よって「却下」とする。


「渋谷で犬と静かに暮らしたい。」
これではハチ公の近くに住んでいるホームレスである。静かに暮らすには場所を間違えていると言えよう。


「湖のほとりで猫と静かに暮らしたい。」 
こうすると、なんだかとても平和な感じがする。愛に溢れている感じだ。
ことさら社会に背を向けるわけでもなく、のんびりと自然に暮らしている感じがする。


以上のように厳密かつ論理的に検証した結果、やはり原因は「犬」にあるということが分かった。
では、犬は猫とはどう違うのだろうか。


猫は勝手気ままな動物である。
都合のいい時ばかり擦り寄って来て、退屈すると露骨に嫌な顔をする。餌をあげても「食ってやっている」くらいの顔をしている。根拠なくプライドが高い。
でも、可愛いのである。だったらもう仕方ない。惚れた方の負け、みたいなところである。
これこそが「無償の愛」である。猫好きは本物の愛に溢れている。


一方、犬好きの愛は無償の愛ではない。
人と犬の間には主従関係がある。犬は人を主人と認め、従順になついてくれる。だから可愛い。当然可愛い。
だがこれは初級編の愛である。いや別にそれで全く問題はないのだが、ちょっと間違えると「負け」になるのである。


「湖のほとりで犬と静かに暮らしたい」という願望に敗北を感じるのは、諦め切れていないからだ。
社会の「主/従」「勝ち/負け」の関係から逃げ出したいのに、自由になっていないからだ。
競争から逃げているのに、自分よりも弱い者に対しては「主」であり「勝者」でありたいという願望が見え隠れする。
だから負けているのである。


最初からそのような社会的な欲望を持つことがなければ、そこには勝ちも負けもない。
だから猫好きは何にも負けていない。とても自由で平和だ。

そんな猫好きに、僕はなりたいと思う。


ちなみに、基本的に犬好きだ。