しりとりエッセイ3:「ぬえ」

「ぬえ」とは、名付けようもない、なんだか正体不明のもののことだ。
 橋本治先生に「ぬえの名前」という著作がある。かつて読み、目からウロコが何枚もはがれ落ちた記憶がある。内容は忘れた。
ともあれ、橋本治(敬称略)は、言葉によって「ぬえ」と戦いつづけている人である。この世界のなんだか分からないものに論理と言葉の光を当て、世界を力技で片付けていく。


しかしそれは果てのない戦いである。
例えば、掃除みたいなものである。
いくら磨いても、いつの間にかまた汚れてしまう。別のところを磨いているうちに、最初の所はもう汚れている。


闇をなくそうとするみたいなものである。
どれほど光を当てても、必ずどこかに影ができる。


デジタル化みたいなものである。
0と1の間にはどうしても飛躍がある。
物質を細かく切り分けていっても、最後には「確率」によって存在が決まる量子力学の世界になってしまう。


言葉は直線的で、不定形なこの世界を四角く切り取ろうとしたら、どうしてもどこかに余りができてしまう。
人はデジタルで、直線的で秩序あるものを分かりやすいと感じる。
しかしそれは現実からは離れている。


頭が良くて体力のある人ほど、ありのままを理解し、表現したいと考える。
しかし、世界にはどうしても「ぬえ」がある。言葉と光の及ばない場所がある。汚れがある。ノイズがある。光を当てれば影ができる。


橋本治の文章は論理的には見えないけれども実はとても論理的で、不定形な世界に着実に論理の足場を作り、一歩ずつ先に進んでいく。論理的に見えないのは、扱っているものが論理から外れた世界だからだ。
橋本治の文章には全ての答えがあるように見える。
しかし言葉ではそれ程遠くまでは行けない。


世界をきれいに記述しようとすると、一面的で浅いものになってしまう。
しかし、あまりに正確に記述しようとすると、言葉自体が「ぬえ」じみてくる。橋本治の文章は「ぬえ」じみている。


絵や写真や音楽に比べ、言葉という道具はあまりに不完全だ。
しかし、分からない人に伝えるには言葉しかない。
言葉は途中までしかないはしごみたいなものである。登山道の目印みたいなものである。
手がかりにしかならない。


でもそれでいいのだろう。
登山道が完璧にアスファルトで舗装されていたら面白くもない。
言葉の限界を知りつつ、深い世界を垣間見せるということをしなくてはいけないのだろう。
別にしなくてもいいけれども。