飛行機で考えた

たまに飛行機に乗ると、人類もついにこんな視点を得ることができたか、なんと素晴らしい時代に生きていることよ。などと、ふと思う。
いかに日ごろ飛行機に乗り慣れていないかがうかがわれる、微笑ましいエピソードであると言えよう。


さて、飛行機の窓から見る地上の景色。
河口付近に密集している民家、ビル、道路…。人の営みは、悪いけれどまるでゴミ溜めのようだった。河口に打ち寄せられて溜まったゴミだ。
夕暮れ時。夕日を浴びて、雲は美しく輝いている。それに比べて、人工的なものは不自然で汚らしい。
しかし、それらは夜になると、色とりどりの美しい光を放ちはじめる。
この光が美しいから、我々は存在を許されているのではないだろうか、などとふと思う。
我々は夜更かしをし、工場は光り輝き、オフィスやマンションは規則的な光を放ち、道路は美しいラインを作る。
我々の生きる目的は、美しい光を作り出すためだけにあったとしたら!
残業などしてても、どうせたいした仕事をしているわけじゃない。それは、光を灯すことだけが目的だったのだ。
珊瑚虫が美しい珊瑚礁を作り出すように、我々人間は、夜美しく光るゴミを作り出すのだ。それが我々の存在理由だったのだ。
…そんな考えって、なんか素敵じゃない?(じゃない。)


羽田空港に着くと、空気が薄いような気がした。
街にはあまりにも自然がなかった。道路沿いに植えられて枯れかかった街路樹などは、自然ではなかった。
飛行機から見た「ゴミ溜め」のどまんなかにいて、息苦しく感じる。逃げ出したくなる。ここは閉じられている。
狭く過密な社会の中で、エントロピーは高まり、肉体は自然から切り離され、置き去りにされる。神経ばかりが興奮して、シナプスではデジタル信号が明滅する。
0と1は極限まで細かく分けられて、あまりに微妙になった差異はなくなり、一面の灰色になる。意味や価値はどこにもない。
過密な関係性。ストレスも極限まで溜まり、皆は何かに必死に耐えている。
沈みかけた船の上で、誰もが上を目指すけれど、どこまで上っても、沈んでしまえば同じこと。問題はそれがいつ来るかということだけだ。


屋久島の人は心が広く、優しいというが、そして実際そうだったけれど、あれだけの自然とエネルギーに囲まれて、人口密度が低ければ、きっとそうなれるんだろう。
そして、きっとその方が正しいのだろう。
この世界にもうそれほど必要なものはないのだとしたら、そして石油中心の経済がいつか終わるのだとしたら、別にあくせくとたいして意味のないことをする必要もないのかもしれなかった。


なお、昨日も書いたが、そのような思いはその後1週間もすると薄れていった。
スポーツなどをすると良いようだった。