コミュニケーションとネット


こうしたネット上のテキストもコミュニケーションである。
ベクトルと能力には疑問が残るものの、少なくとも確実に時間は消費している。
自分でも訳が分からないが、何らかの衝動がある。
目的も分からずなんか書きたい。これがコミュニケーションへの衝動か。(誤った方向への。)
ネット上にテキストを書き始めてから、確実に仕事への情熱が失われた。
持っている時間は限られている。
エネルギーは限られている。
そのことに気づいて後悔もしているが、価値観が多様化している今、仕方がないことなのかもしれない。
と、自己正当化を試みている。


というより、考えてみたら、物心ついた頃から何らかの形で(空想、物語、音楽のフレーズ、哲学的思考など)現実世界とは違うベクトルを抱えて生きてきたわけで、常に二重生活は続けていたのだ。
そして、「大人になる」ということはこういった二重生活を捨てて、ベクトルを社会の要求する方向に合わせるということなんだろうとずっと思っていて、それは今も確実に正しいことだと思うし、実際にそうやれた時には進んでいる感覚を感じることができるのだが、こうやって別の世界を構築してしまうと、どうしてもエネルギーのベクトルは分散してしまうのだし、そうなってから開き直ってみると別に「社会が要求するベクトル」なんてものはなくて、社会では、どっちを向いても良いことになっている気もするのだった。


親の世代では、社会人は社会のために「生産するもの」であらねばいけないとされており、そういう教育もされてきたのだが、大雑把に言って80年代には生産するために「消費すること」がもてはやされ、最初それは女子供を煽り立てるための嘘だったはずだが、嘘は誠になり、別に消費者より生産者のほうが偉いという訳でもなくなっていたのだったし、むしろどちらにしてもコミュニケーションが真の目的だとしたら、消費するほうが楽しいだけで、生産者となるほうが貧乏くじであるだけだということになってしまっていて、そう思ってよく見てみたら、社会が豊かに便利になるためっていう大義名分も嘘かも知れず、その証拠に必死に作ってみてもたいして社会の役に立っているわけでもなかったってのが大多数で、自分がいなくても自分の会社がなくても、別に誰も困らないような感じもあり、なんのことはない、それでは自分の満足のために働いていただけなのだった。
働くこと自体が目的だったにすぎないのだった。
だったら消費を主目的にしてもいいわけだし、メールやチャットを主目的においてもいいわけだし、何かの収集とかを主目的においてもいいわけだし、こうやって言葉を垂れ流していたっていいわけなのだった。


ベクトルを自分の本来とは違う方向に向けると、持っている全ての力を出すことはできない。
ベクトルを分散させても大きな力は出せないが、仕事側のベクトルを調整することが可能なら、ベクトルの組み合わせで新たな方向に大きな力を出せる可能性もあるかもしれない。


結局何が言いたいのか?
自分のことが分からないから、こうして長々と書いているだけだ。

自分はどうかと考える。
不必要なことはやりたくないと感じる。
必要ない仕事を、仕事のための仕事をやろうとは思わない。
好き好んで争いの中に入っていこうとは思わない。


売上を伸ばすことがそれ程大切なことか?
他社のシェアを奪っているだけなら、それは社会が必要とする努力ではない。
まあ競争によるサービス向上という大義名分はあるが、そんなの後付けっぽい。
別に他社と戦わなくても、勝手にサービス向上に努めればいい。
人は競争しないとやる気が出ないということはあるが。


誰も見ない資料など、きれいに作る必要もない。
必要とされない仕事を無理に作り出してやらなくてもいい。

目的は何かということだ。
目的をはっきりさせれば、やらなければいけないことが分かる。
無駄なことばかりだ。
息が詰まる。
しかし、それをはっきりさせてしまうと人が余る。


雇用を維持するためには、仕事を作り出さなければいけない。
横の数字を縦に並べ替えたり、データを違う形に打ち変えたりして。
本当にやらなければいけないのは、決断することだけだ。
そして、そのために内容を把握することだけだ。


つまり仕事にやりがいを感じていないと。
無駄だと感じていると。
しかし、労働者としての人を価値あるものと思ってきたから、やはり仕事が楽しくないと嫌だと。

しかし刺激には慣れていく。
このままずっと興味が持続するのか?
無理だ。飽きてくる。
すでに結構飽きている。


人はステップアップを必要とする。
しかし、そんなに多くステップはない。
だんだんなだらかになってくる。
ステップを越えるのに緊張感がない。
山登りでなく、なだらかな坂道登りだ。
緊張感がない。
高揚感がない。
地味だ。
地味な割に面倒だ。
それがだらだらと続いていく。


想像できてしまう。
想像できてしまったらもう終わりだ。
後はそれを実際になぞるだけだ。
何の刺激もない。
旅は未知へと向かうときには「冒険」だが、ドライブでカーナビに目的地を入力してしまったら、その先は冒険ではなくなり、「作業」になってしまう。

単調な経験値稼ぎも必要なんだろうとは思う。
このストレスからレベルアップの喜びと達成感が得られるのかもしれないと思う。
しかし先を考えてしまうと辛い。


たいして重要なことはない。
どうしてもしなければいけないことはない。
だとしたら、なんのための成長か。
自分が快感を感じるためだけのエゴではないのか。
必要とされるのなら頑張ったほうがいい。
しかし必要とされないのであれば、頑張らないほうがいいのではないか。

自分でなくてもいいのだ。
だとしたら、増えすぎた人口と過剰な生産物の中で、なるべくひっそりと息をしないで過ごしたほうが、世のため人のためなのかもしれないのだ。


中世ヨーロッパではそうだった。
人々は宗教的な禁欲的な生活を送り、休息日には休息していた。

みんなどこかでそう考えているのかもしれない。
しかし気づかないふりをしている。
自分だけは必要だと考えている。
根拠はないのだ。
しかし、みんな我が物顔で生きている。


何かを変えたいと思う。
何かを作り出したいと思う。
非連続を産み出したい。
創造したい。
それは、芸術作品の創造であっても、仕組みの創造であっても、データベースの創造であっても、思想の創造であっても。
分析でも改善でもいい。
変化がないと耐えられない。
閉じられた制度/システムの中から、外部の風に吹かれて。
つまりは暇で、エネルギーの伝達がうまくいっていないと。


人は生命の熱を伝え合うものである。
それがコミュニケーションであり、それが経済活動や生産や労働や消費や携帯やメールなど全ての活動の源である。
 
熱は高い所から低い所に伝わる。
熱とは金であり時間であり情報であり全てである。
スムーズに熱を伝えられるものは、多くの人と熱を交換し合い、エネルギーは流れて平熱で安定している。


熱をうまく伝えられない者は、一方的に溜め込んでしまう。
放出することをしないと、熱は低いほうにしか流れないから、流れ込んではこない。
そこで、外部を冷たくしようとする。
すると内部と外部に温度差ができる。
温度差ができすぎると、ますます放出することはできなくなる。
内部は熱すぎてうまく伝わらないのだ。
結果、過剰な熱をかかえて微熱を帯びて、調子がおかしくなる。


しかし、過剰な熱は多くの人になら伝えられる。
遠くの人になら伝えられる。
身近な人には熱すぎても、数と距離によって薄まればちょうど良くなる。
または形にすることによって封じ込めることができる。
「命を削った作品」というが、全ての作品は命を削っている。


スムーズに熱を伝えられる者は、何かを作り出すことはできない。
それ程の熱は持ってはいないのだ。
熱が伝わってきたらすぐに手放すようにしているからだ。
落差がものを創り出す。
熱を溜め込んでしまう者が、苦しさのなかで何かを生み出す。
問題は、その生み出す何かが光るものかゴミかだ。
それは大問題ではあっても、当人にとってはどちらでもいいことである。
だから申し訳ない気持ちを持って、熱を排出することだ。
人は熱を放出しないと生きてはいけない。


生み出す熱は能力×時間で測られる。
能力が問題だ。
生まれつき能力は決まっている。
それをどの程度変えることができるのか。
多分努力することと上達することも能力のうちだ。
できるところまではやるとしても、限界はある。
それは諦めることだ。
受け入れることだ。
その上で戦略を立てることだ。


学校教育においては、時間当たりの能力が測られるため、この初期設定値が非常に重要になるが、学校を出れば、物事はもっと長期的なスパンで見られる。
それにあわせた戦略を立てればいい。


みんな上を目指す。
体から脳を目指す。
現場の作業から企画的に仕事に。
泥臭い仕事からスマートな仕事に。
第一次産業から第三次産業に。
しかしそれらは生み出さない。
伝えることが仕事だ。
つるつるとうわべだけを流れていく情報のやり取りだ。


都市には廃熱がこもっている。
発散されない。
文明の後には砂漠が残る。
そこには曖昧さが残らない。
デジタルな風景だ。
ゼロか1か。
熱を与えられれば熱く、奪われれば冷える。
死の風景だ。


人の活動は地球を殺すのだろうか。
人は地球にとっての癌細胞なのか。
大きい目的にとっては役に立たないとどこかで知りながら、それでも生きのびるようにプログラムされた存在なのか。
目的などはないのか。


しかしただ大きな法則がある。
それは伝え合うことか。
きっと消費だ。
熱の消費だ。
地球を消費する。
そして砂漠に戻す。


生命とは何か。人とは何か。
整理して分類しようとする。
カオスを分類する。
秩序を生み出す。
自然を切り刻む。
作り替えていく。
アナログをデジタルに分けていく。
全てを二つに分けていく。
瞬間ごとに選択する。
分離する。
見ることによって。
言葉によって。
思考によって。
それらは明らかに生の働きである。
それはエントロピーを低める行為である。
重いものを坂の上に持ち上げる行為である。


一方で人は消費し尽くす。
石油や石炭やガスをエントロピーの高い状態から、消費して低い状態にする。
製造して秩序を作り出すときにそれ以上のカオスを排出する。
エントロピーを高める。
鉄を精製するにも多量の熱と滓を排出する。


人が残すものは都市である。
田畑である。
しかし永遠に残るものはない。
都市の後に残るのは砂漠である。
田畑は土の消費である。
地球の自然を消費している。
結局、人は熱を伝え合うことによって、消費することを目的としているのではないか。
地球を死に至らしめるもの。
しかしそれは宇宙の法則である…。