コミュニケーションと責任

日本は物質的に豊かになり、共通の目標がなくなった。
物と情報は処理できる以上に溢れ、生産することは美徳ではなくなった。
そして消費する必要もなくなった。

これにより価値観の多様化が進み、人は個人の利益を追求するようになった。
そこでは生産と消費の経済に価値を置く必要はなく、メールに価値を置いても趣味に価値を置いても良くなった。


常に変わらないものとして、コミュニケーションの必要性がある。
コミュニケーションとは、価値あるものを相互に与え合うことである。
価値は多様化しているが、常に変わらない基準は「エネルギー×時間」であり、時間とは命そのものであるから、コミュニケーションとは命のやり取りを含む。

個人が何に価値を置くのかは、個々に選択する問題となる。
生産と消費という大きな目的があるとき、効率よくそれを行うために、一枚岩の集団を作ることも必要かもしれない。
しかし、多様なはずの人を一つの方向に縛り付けるのは、本来異常なことである。
それは必ず共同体に入れないものを生み出す。
それはかつて、あるいは精神病院という外部に隠された。
あるいは差別用語の排除という形で緩やかに隠された。
あるいは共同体の内側にもいじめという形で生贄が必要とされた。


共通のものを追い求める一枚岩の集団にはストレスがかかり、それは弱い者にしわ寄せがいくから、いじめが発生する。
価値観が多様化している集団は(それはもはや集団ではなくなってくるが)結びつきが弱いから、いじめは起こらない。
弱いものは集団を抜け、別の得意な分野で強いものになる。
そして学校では学級崩壊が起こる。


共同体は任意で緩やかなものになる。
ベクトルがそれぞれ違っているから、全体的な連帯は感じられなくなる。
知り合いのみが身内で、それ以外は完全に関わりのないものか、もしくは「敵」である。
暴力が起こりやすくなる。
人は仲間以外にはいくらでも残酷になれる。


個人が選ぶことが重要になる。
選択に根拠はない。
唯一絶対に正しいものなどはなくなる。
全ては個人責任だ。
そしていくつ選んでもいい。


そして緩やかな共同体全てに共通した、緩やかなルール/規範が必要になる。
「一枚岩」の社会では、共同体全体が神経症的であり、それら外部と生贄のガス抜きによって、残りの大多数の精神的健康が守られた。

共同体に縛り付ける力が弱まると、共同体全体としては健康になるが、今度は個人が神経症的になる。
五体不満足」などがベストセラーになり、宗教が流行り、やましくて口に出しづらいものが減少する。
つまり「外部」がなくなる。
すると個人が外部を抱えなくてはいけなくなる。
精神の健康を保つのは個々の努力によらなくてはいけなくなる。


一緒にいるから仲間でなく、同じテレビを見ているから仲間ではなくなる。
今は一緒にいても違うことをしている。
同じようにパソコンに向っていても、違う相手とメールをしている。
テレビも多チャンネル化している。
共通の体験は生じにくい。

個人が問われるようになる。
それはある意味で厳しいことだ。
個人の存在そのものが問われるのだ。
逃げ道はない。
しかしある意味でそれは進化なのかもしれない。
遠回りを止めたのかもしれない。


いずれにしても、変化はすでに起こっている。
それは「第三の波」とか「知価革命」とか言われるのと同じことなんだろう。

自由は拡がった。
しかし自由には常に責任がつきまとう。
新たな倫理が必要だ。
なぜ仲間以外であっても傷つけてはいけないのか。
新たなルールが必要だ。
今までの装置では対応できない。
世間がなくなれば、ルールであった「世間体」もなくなる。


激変する時代にあって、親の経験は子供に生かされず、親子で利害が相反するとすれば、親子間の緊張関係は高まる。
別に経験が長いことが力ではなくなってくる。

倫理もやはり個人のなかに生じなければいけない。
個人で解決しなければいけない。

「因果応報のルールがあり、生まれ変わりがあるから」とか。
これは最近京セラの稲盛氏なども言っている。
信じられればなんであってもいい。
因果応報は個人的に信じられるというだけで。
使えるルールが必要だ。

コミュニケーションとは、エネルギーの交換である。
エネルギーとは、「能力×x」によって生み出される。
「x」とは、人を生かすものであり、全ての生命力の源であり、太陽エネルギーであり、熱であり、愛であり、「神」であるようなものだ。
外部のエネルギーを含んだものだ。

このエネルギーに目を向け、増やすこと。
エネルギーは無限ではない。
能力を向上させ、効率よく使用しなくてはいけない。
そしてそれを交換すること。
分け与えること。
それが大切ではないかと思う。