生産と消費とコミュニケーション

人は生産するものであり、消費するものである。
そして人はコミュニケートするものである。
人は生産することにより人とコミュニケートし、消費することにより人とコミュニケートする。


生産する側を見ると、人は物と金を通して人とつながり、仕事そのものを通して人とつながる。
仕事の面白さとは、知識や技能の向上を感じること、能力を発揮することなどもあろうが、最終的にはそのことにより組織、つまり人に対して何らかの貢献をすることと、それにより評価を受けることであろう。(あるいは、貢献され、それにより評価することであろう。)
そのようにして、人は労働を通して人とつながっている。


労働の対価として賃金は当然必要ではあるが、生活上必要な額を越えた分の賃金は、「他者からの評価の尺度」という意味合いになってくる。
現代の日本においては、多くの人が、生きていくために必要最低限の賃金を得ることはできる。
それを越えた賃金は、もっと抽象的な、評価の尺度としての意味合いが強くなってくる。
自分と自分の能力の価値はいくらなのかという、精神的な意味合いだ。(また、「生きていくために必要」と感じる額自体が膨らんでおり、それは消費の欲望から生じている。)


消費の側から見ると、人は他者と同じ物を消費することによって、つながりを得る。
人は他人が欲しがる物を自分も欲しがる。
欲望は模倣から生じる。
「同じ物に価値を感じている」ということを通して他者とつながる。
そしてステイタスのために消費する。
誰もが欲しがるが、誰もが手に入れられるわけではない物には価値がある。
だからブランド物が売れる。
少しのプライドと多くの仲間を得るために、ブランド品はちょうどいい。


もしくは、音楽や映画やスポーツ観戦や本を通して、他者とつながる。
それらを媒介として、間接的につながる。
隣り合った孤独な人々は、物を通してつながる。
映画館では暗闇のなかで互いに黙って座り、共通のスクリーンを介して隣人とつながる。


これらの場合も最低限必要な消費を除く。
しかし、高度資本主義経済の下では、最低限必要な消費などはごくわずかに過ぎず、膨大な過剰のための生産と消費が行われている。
さらにそれだけでは足りず、生産するための複雑な仕組みを作り出している。
そしてそのために、また生産が行われる。


このように、いりもしないものを皆が必要だと言い聞かせて、生産し、消費しようとするのが資本主義である。
資本主義は、自らの中に拡大しようとするエンジンを組み込んでいる。
レヴィ・ストロースのいう熱い社会である。


本当は不必要なものが溢れていると思いながらも、それを言ってしまうと、自分を含めて全てが不必要なものになってしまうので、誰も皆、気づかないふりをして、曖昧な必要性のうえに必要性を重ねて、生産と消費を拡大していく。
曖昧さは「時間」と関係が深く、未来の利益や、未来のリスクのことを考えると、必要なものはどこまででも増えていくから便利だ。


しかし、時代はデフレである。
多分、一定数の人が、このままどこまでも増えつづけることはできないと考えたのだろう。
資源や環境や人の欲望や土地の広さには限界がある。
少子高齢化が進んでいる。
未来にツケは払わなくてはいけない。


多分、気づいたのは、団塊の世代のジュニア達だろう。
老人達のために、ツケだけを払わなくてはいけないことに気づいたのだろう。


あるいは気づいたのは団塊の世代本人達かもしれない。
生産は美徳と信じて働き、消費は美徳と信じてマンションを買ってまた働いて、気づいたらリストラ対象だった人達。
日本社会は右肩上がりの賃金上昇を前提にして、若者達を安月給で働かせた。
「今頑張れば将来たくさんもらえる。」
しかし、自分がもらう番になってみると、企業には大量の団塊の世代に支払う金はなかった。
前の世代が貯金を食いつぶしていたのだ。
いや、そもそも永遠に成長を続けるモデル自体があやふやな幻だったのだ。


騙された世代は深く思い、子供たちに言う。
「大人たちの言うことに乗ってはいけない。」
世論は多数決だ。
多い世代の声は社会の無意識の声になる。


人は属する組織の成長に自分の成長を重ね合わせる。
会社が大きくなれば、自分も大きくなっていくような気分になる。
しかし、会社が成長をやめるのなら、もはや個人の欲望を吸収しきれなくなる。
個人は自分をそこに重ね合わせる必要はなくなっていく。
「会社が全てではない。むしろ手段に過ぎない。」


90年代半ばまで、父親は生産する役割を荷って会社人間となり、妻と子供は消費する役割を担って競うように消費した。
家族がそれぞれ分担して、生産と消費のコミュニケーションに加わり、その結果家族はばらばらになって、父親不在となった。
役割が違うもの同士、分かり合うことはできないのだ。


拡がりすぎたのかもしれない。
無理に社会を広げすぎて、綻びが見え始めている。
熱が足りなくなってきている。

少子高齢化が進んでいる。
社会に人のエネルギーが足りない。
前線を広げすぎれば、中心部には空洞ができてしまう。


熱は拡散していく。
物質は密から疎に向う。
その中で、生命のみが外部との交換を通じて秩序を作り上げ、世界に逆らってそれを維持する。
売買し、貿易し、コミュニケーションの輪を広げ、成長を求めるのは人の本能かもしれない。


コミュニケーションとは何かのやり取りである。
「何か」とは、言葉であったり感情であったり情報であったり仕事であったり物であったり金であったり気であったりし、抽象化すれば何らかの「エネルギー/熱」である。

突き詰めればみな同じことなのかもしれない。
金のやり取りであっても、物のやり取りであっても、労働のやり取りであっても、情報のやり取りであっても、生の言葉のやり取りであっても、メールの文字のやり取りであっても、同じことなのかもしれない。


そして、物質は過剰で、環境は破壊され、欲望も人の体のサイズを越えて、これ以上消費が不可能となれば、新たなコミュニケーション手段を得なければいけない。

それが携帯電話でありメールであった。
レジャーや買い物による消費は、携帯電話やメールの通信費に取って代わられている。
コミュニケーションは、かつてのように労働や消費を通したものから、携帯電話を通した言葉によるものに変わっている。

逆に言えば、携帯電話の登場が、これまでは生産と消費がコミュニケーションであったことを明確にしたのだ。
生産と消費のコミュニケーションに物質的、環境的、精神的限界が見えたからこそ、携帯電話が爆発的に普及したのかも知れない。

携帯で意味のある情報がやり取りされることは、全くないとは言わなくても、まああんまりないだろう。
しかしそれでもいいのかもしれない。
「何か意味のあることをなす」というのは、一つの価値観に過ぎない。
それは過去の価値観に過ぎない。


生産の場において「丈夫な物を造ること」もかつては価値であったが、大量消費社会では無用なものになった。
消費社会では、すぐに壊れたほうがいいのだ。
このように、価値観はいずれ変わる。


同様に、「皆と同じ物を買うこと」や「皆よりちょっと上のものを買うこと」も一つの価値観だし、「有益な情報をやりとりすること」も一つの価値観に過ぎない。

大体、世の中にそれ程重要な情報はない。
情報はそれ自体に重要性があるのではなく、隠されているから重要なものになるのだ。
限られた人しか知らないからこそ、そのことが価値になるのだ。
「皆が欲しがるが一部の者しか手に入れることができない」ものが、常にもっとも価値あるものである。


携帯電話とネットは、生産と消費に比べ、より直接的なコミュニケーションである。
そこでは距離も時間も関係なくなる。
公私の区別がなくなる。
時間に切れ目がなくなる。


電波がつながった時に、いつでもコミュニケーションが発生する。
場所が均質化する。
どこにいても、つながれば日常になる。
いつでもどこでも人は電波を通して結びついている。

経済活動とはコミュニケーションであった。
携帯電話とネットの爆発的な浸透は、経済活動というコミュニティへの不参加と、新たなコミュニティへの参加を示している。

これらはまったく別のコミュニティである。
前提とする価値観が異なるのだから、どちらが重要であるとか、どちらに価値があるとか比べることには意味がない。
敢えて言えば、多数決で多いほうが勝つのだ。
多くの人が求めて手に入らないものが新たな価値になる。
そして勝ちになる。
新たな価値は、携帯のメモリーの数かもしれない。


エネルギー/熱が直接的なコミュニケーションに向かうと、生産と消費は生活に必要な最小限のものに近づいていく。
必要最小限の消費を選択する者も現れる。
最小限には衣食住だけでなく、「最低限抑えておくべき定番」という消費も含まれる(それも現在では最小限の消費である。)から、一部のヒット商品(音楽、映画、本を含む。)が生まれることはある。
しかし、それ以上の消費は個人の趣味が選択すべき問題である。


例えば音楽では、洋楽に詳しいことはいまや別に価値ではない。
趣味の問題である。
映画に詳しいことも、本を読んでいることも、スポーツに詳しいことも、ギャンブルに強いことも、趣味の問題である。
どれも同列である。
消費は細分化される。
消費は価値でも美徳でもなくなる。


コミュニケーションとは、自分にとって大切なものを相互に与え合うことである。
そして大切とされるものは共同体によって、時代によって、人によって変わって来るが、常に根本にあるものは「エネルギー×時間」である。
情報も「エネルギー×時間」によって得られるものである。


つながることの代償は時間である。
いつでも、どこにいても、どんな気分であっても、リアクションを要求される。
それはいつでもどこでも相手を/人を意識し大切にしているということの相互の確認である。


思えば生産によるコミュニケートの代償も時間である。
消費の代償は金であるが、金は時間を注いだ結果得られるものである。
生産と消費のコミュニケーションは、金を媒介として動いており、金は「エネルギー×時間」という価値を表しており、当然に時間を含んでいる。

このうちで変数は「エネルギー」である。
多様な「エネルギー」を、共通の尺度に置き換えて流通可能にするものが金である。
しかし、金は「多様な価値の尺度」という不完全なものであるため、「誰もが価値を感じる」ということのみが確実な存在理由である。
ということは、価値を見出さない人が増えれば、存在が許されなくなるものである。
「金より、直接的なコミュニケーションを求める」という価値観に変わることもありえる。


いかなる時でも常に不変な価値は「時間」である。
時間が誰にとっても価値であるのは、誰にとっても平等に限られたものであるからである。(寿命は不平等ではあるが、過去は変えられず、未来のことが分からないという意味で、誰にとっても時間は平等に存在している。)
時間が限られたものであるのは、生には必ず死が訪れるからである。
時間とは生である。
人は相互に時間を与え合っている。
コミュニケーションとは突き詰めれば時間、つまり命のやり取りである。

携帯のメールのやり取りとはあまりにもイメージがかけ離れているが、全てのコミュニケーションは命のやり取りなのである。
メールも労働も消費も命がけなのだ。
時間を消費しているという意味で。
生命を消費しているという意味で。
人は命をかけて人に何かを伝えようとするものなのだ。


そういう意味でコミュニケーションが最も激しく現れるのは殺し合いである。
まさに命のやり取りである。
生物の食物連鎖の輪こそ神聖なコミュニケーションである。
命という、最も大切なものを相手に差し出すのだ。
突き詰めると多分それが変わることのない共通のルールだ。
突き詰めすぎだが。


戦争の中に神聖さがあるのはそれが理由だ。
しかし戦争を賛美してはいけないのは、それが全く無意味に作り出されたものだからだ。
他の生物にとっては自分の種を守るための必要な殺し合いだが、人の殺し合いはフィクションであり、不必要なものであるから、行うべきではないのだ。
一部の権力者の利益のために、無数の強き者の命が犠牲になるから、行うべきでない。


ゲームであるなら、他のゲームをすべきである。
経済ゲームでもサッカーでもオリンピックでもメールでもいい。

人はじっとしてはいられない。
変わらずにいられない。
創り出さずにいられない。
伝えずにいられない。
戦わずにいられない。
他の生物はただ食って寝ているだけで満足しているのか不満か知らないが、人はただいるだけではいられない。
それは天敵がいなくなってしまったからかもしれないし、生物としてのズレから生じているのかもしれないし、原初の劣等感から生じているのかもしれないけれど、どうすることもできないものである。
変化と遊びがないと耐えられない永遠の子供なのかもしれない。
だったら、子供らしくゲームで遊んでいればいいのだ。