時間と価値


時間をかけるほどに充実感は増していく。
それは労働にしても、趣味にしても、移動にしてもそうで、時間を費やすほどにその成果は大きいもののように感じ、大きな達成感を感じることができる。(実際の達成度とは関係なく。)


資本主義経済では、「時間」は価値の基準である。
タクシーなんて、腹も膨れないのになぜあんなに高いんだろうと頭に来るが、それは時間を買っているからだ。
ほとんどの企業は結局のところ「時間」を売っている。
「技術」や「知識」を売っているという企業もあろうが、「そこでしかできないこと」というのはそれ程多くないとすれば、よそでもできることをやっているのであり、つまり売っているのは結局そこで産み出した「時間」だけであろう。


賃金とはだから、本来は時間という価値を生み出した対価である。
「Time is money」、つまり「時間=お金」なのだ。
しかし労働基準法では、賃金は「労働の対償として使用者が労働者に支払う」ものとされている。
そんなことは一見当然のようにも見えるが、よく見ると、ここではどれだけ価値を産み出したかは全く考慮されていない。
つまり、いまだに労働の価値はかけた時間でしか計られていないのだ。


企業において「業務改革」の必要性が言われるが、現状の年功序列型の、もしくは不完全な能力給制度のもとにあっては、非常に難しいと思われる。
作業効率を上げることは時間という価値を産み出すことであり、創造する快感を伴うが、それは同時に自分の仕事の価値を下げることになる。
労働の価値がかけた時間でしか計られていないのであれば、時間のかからない仕事は価値の低い仕事ということになるのだ。
その結果、空いた時間には新たな仕事を作り出すことになる。
そうして仕事は複雑化する。

それは、仕事の質、難度などの評価がされていないからだ。
スタッフ系の不満はここにある。
しかし、それを正確に測ることは難しい。


組織、仕事は放っておくと複雑化・細分化していくものらしい。
それは別に組織が拡大していかなくてもそうなるのだから、ある種の法則なのかもしれない。(あるいは単純にポストを増やすことが目的なのかもしれないが。)
細分化し、複雑化した仕事を全て理解できる人などはいない。
評価者がいない。
それは永遠の不満だ。


しかし、どれほど評価の仕組みの精度を上げていっても、どうしても不満が残るのは、最終的には脳の自己評価に関わる問題のせいであろう。
脳は、自分より優れたものによってしか測られ得ない。
しかし、脳は自らより優れたもの、自分の意識の外にあるもののことは理解できない。
だから常に自分に甘く、人には厳しくなる。
意識の範囲内にある他人のアラが目につき、範囲外である自分のアラには全く気づかない。
従って、脳によってする仕事に対する評価に、心から満足することはあり得ない。
教訓)謙虚になりましょう。


時間を産み出す瞬間には創造の快感がある。
しかし、その状態にはすぐに慣れ、それが当然になる。
価値は落ちる。


例えば、ファックスや携帯電話やメールの登場は、距離の制約をなくし、時間を産み出した。
しかし、それが現れた時には大きな快感があるが、あればそれが当然になる。
次には品質の向上に向かうしかない。


例えば、飛行機や新幹線の整備は時間を産み出し、日本は狭くなった。
しかし、それらによって移動した場所がもはや異空間ではなくなり、移動が新鮮な「外部」への体験ではなくなると、人はもっと先へと行こうとする。


しかし、限界がある。
想像力と肉体という限界はあり、それにより閉塞感に至る。
もはや世界に残された「外側」はない。


時間は、流れの変わるときにのみ感じられるものである。
感じられないままに均質に流れて行く時間は存在しないのと同じで、ひっかかりもないままにただ流れ、過ぎていく。

時間を感じようとするのなら、一つには時間を産み出し、流れを加速させることだ。
効率を追求し、工程を省略し、機械化を進め、スピードを上げて、距離をなくす。
しかし、上述のようにそれにはすぐに慣れる。


だからもう一方では、あえて時間をせきとめ、その重さを感じることだ。
あえて各駅列車の旅をすれば、充実感は得られる。
あえて山に登る。
あえて面倒なことをする。

それらは時代から逆行した無駄な時間つぶしのようではあるが、主観的には時間と充実感を感じることができる。
そして、時間に関する「客観的尺度」はなく、感じられる時間は主観的なものである以上、これこそが「正しい」態度であるのかもしれない。

「効率化をはかり、時間を産み出して、有意義な時間を作ろう。」
これが近代から今に至るまでの「正しい」共通認識であっただろう。


しかし、産み出したはずの時間は、すべてどこかに消えていった。
手にしたものは全て消えゆく定めだった。
一生懸命に貯めた時間は、すべて「灰色の男たち」に盗まれてしまったようだった。(ミヒャエル・エンデ「モモ」)


技術者は、スピードを産み出したと思ったらすぐに品質の勝負に移り、競争は終わることがなかった。
製造者は、短時間で作れるようになったと思ったら、同じ時間で多くのものを作らなくてはいけなくなった。
営業は、便利になったはずなのに、やることが増えるばかりで売上はたいして増えなかった。
おまけに東京―大阪間は日帰り出張になった。
スタッフは、作業の効率化をした分だけ、自分でまた新たな仕事を作り出した。


いや、それは誰も皆「何もしない」ことに耐え切れず、自ら進んで作り出した暇つぶしなのかもしれなかった。
この世には必要なことなんてたいしてない。

それよりも、地道な作業のなかにこそ、感じられる本当の時間はあるのかもしれなかった。
自然と同じ流れの中でこそ、流れを感じられるのかもしれなかった。
自然の早さの中でこそ、我々の感覚は時間を取り戻せるのかもしれない。


時間や快感や自由は、すぐにインフレ現象を起こす。
人は、より強い刺激を求めるようになる。
しかし、それにもすぐに慣れる。
退屈する。
人は空白を恐れ、先へ先へと強迫的に進もうとする。
意味や目的などなくても。


だから流されることをやめ、一度立ち止まり、流れから身を引いて考えた方がいい。
そして自分の内面と対話をする。
自然に帰る。
敢えて枠を設定する。
速度を落とす。
すると、今まで見えなかったものが見えてくるかもしれない。


しかし、それはスピードという競争から降りることであり、何かを捨てることを要求される。
簡単にできることではない。
仕事では時間の流れを速め、趣味では時間の流れをせき止める、ということだろうか。
趣味とは元々そういうものか…。