脳をめぐる雑感


脳は存在自体に矛盾をはらんでいる。

脳は負荷を求め、自己目的的に働こうとする。
脳が退化しないために、脳内の神経は相互に過剰な結びつきをする。
それが意識の由来とも言われる。
脳内の神経は信号を飛ばす。
その内容は問わない。
コミュニケートすることがその目的である。
意味もなく、複雑化する。


しかし一方で、脳はスピードを求め、自らが存在しなくてもいい方向に動機付けられているようにも見える。
距離をなくし、軽さを求め、情報を外部に貯めようとする。


あるいは、それは「脳」と、もっと全体的な「魂」といったものとの対立だろうか。

それは企業の脳であるスタッフ部門も同様か。
「脳と魂」を企業に置き換えると、それに対応するのは「企画部門」と「企業風土」だろう。


企業風土っていうのは従業員のベクトルの総合で、スタッフが作り出すこともあるけれど、作ろうとして作れるものではない。
様々な要素の結果として、そこにあるものだ。
そして、優れた企業風土があれば、企画部門は別に必要ではない。
スタッフは「必要悪」だ。
脳も、同じように必要悪なのだろうか。


人は夢の中でのような軽さを求め、肉体という重さ、物質という重さの制約を逃れようとする。
加速していく時間と感覚に対して、瑣末な雑事は残り、物理的な制約は面倒で重い。


どれだけ新たに時間を作り出しても、どれだけの情報に囲まれていても、理解し吸収できる情報の量は限られていて、それはとてももどかしく、周りには見えないガラスの壁がある。
それはあるいは周波数の壁。
知覚できない限界線。


魂は肉体の制約を捨て去ろうとしている。  


肉体は負荷を欲している。
負荷のあるところに肉体は生じるから。


自我は時間を感じるものである。
自我が意識するときに時間が生じる。


意識は流れるものであり、流れるのが時間である。
意識が流れるものであるのは、言葉が一方向に流れるものであり、順序を産み出すものであるからだ。
自我とはつまり言葉か。
言葉によって作られたものか。


加速していく脳が、あるいは精神が、制約をなくし、追い求める世界とは、距離も時間もない世界。
あらゆるところに偏在していること。
情報の/熱の均質化。
自他の区別もなくなる。
それは「夢」の世界。
それは「死」の世界。


死が生の目的?
この世のあの世化が進んでいる。
夢の世界に近づいていく。
夢の世界もまた死と同じ。
肉体を置き去りにして。
エントロピー増大の効率よい手段が生であるのか。


ゴールがない。
生命は、あるいは人は、あるいは文明人は、強烈にある方向に進むよう動機付けられている。
しかしゴールがない。
ゴールに見えたものは永遠に届かない地平線で、一瞬の幸福あるいは脱力の後に、また新たなゴール目指して走るように作られている。
そして最終的なゴールもまた用意されていないということが、とても悲劇的なことだと思う。