ネオテニーの時代

人類が人類となった原因は「ネオテニー」であるとする説が割と有力らしい。
これはL・ボルクが唱えた説であり、岸田秀今西錦司などもこれを支持している。


この説によると、人間は猿の胎児の「幼形成熟」であるという。
その証拠に人間の赤ん坊は無能力で、成人しても体毛が少ない。
人間とは、いわば子供のまま大人になってしまった単なる劣った猿なのである。
しかし、子供であるということは、成長し、学ぶ期間が長いということであり、その結果、人間は知能を飛躍的に発達させることができたという。
納得である。


そして、これは人種間にも当てはまることであり、黒人が最も「大人」であり、白人がその次、黄色人種は最も「子供」であるという。
これは人種の発生の順序と同じであり、身体的特徴からも納得できることである。
日本人は、他の人種に比べて体毛は薄いし、体も小さい。
顔も扁平であって凹凸が少ない。
これらは、「子供」の特徴であると言えよう。
日本人はアメリカ人に比べて子供なのだ。


マッカーサーは日本人を見て「精神年齢12歳」と断言したらしいが、それも仕方のないことなのだ。
だから日本人そしてアジア人は、論理的思考ができなくて、自我がしっかり形成されていなくて、雑然としていて、子供っぽくて、群れるのだ。
…全て良い意味で。


ネオテニー度が高い人種は、オリンピックやサッカーを観て分かる通り、身体的能力は落ちる。
人が猿に劣るように。


しかし、知性は最終的にはより発達する可能性があるのかもしれない。
人が猿に勝るように。


例えば、言葉の範囲内だけで考えて事たれりとし、機械論や因果律という「科学的思考」という「部分」にこだわりつづける西洋的な思想より、言葉を超えて「全体」や「場」を捉えようとする東洋的な思想の方がより深いような気もする。


ネオテニーの考えを推し進めると、同じ日本人のなかでも成長の度合いが異なる層があると言えるかもしれない。
例えば、「ヤンキー」などは一般的に「成長の早い者」であると言えよう。
彼らは一般的に冷めていて、身体能力が高い。
しかし、成長はそこで止まってしまうのか、彼らは「大人」になるのが早かった。
ヤンキーは一般的に「卒業」も就職も結婚も出産も早いのだ。


それに対して、大学に行ったり行かなかったりしながらなかなか社会に出ないような奴には、子供っぽいのが多かった。
しかし、最終的には彼らのほうが知性は高くなり、今の時代に適応しやすく育つようだ。


今の時代―少数の子供がかなり確実に育つことができて、高度資本主義、高度情報化社会であり、いつまでも多くのことを学びつづける必要のある社会においては、きっとネオテニー度が高い方が高度に適応できるのだ。


今は見た目の若い人が目立っている。
その辺のIT系の企業なんかでも増えているし、有名人でいえば永遠の少年こと小沢健二もその妙な頭のよさ(東大卒とかじゃなくて)は有名であり、ネオテニー度はかなり高いといえよう。
浅田彰もいつまでたっても子供みたいだし、橋本治も長いこと変な子供みたいな顔だったが、両者ともにその知性はものすごい。


彼らはいつまでも学び続け、変わり続ける。
そしてこの変化の激しい時代に適応する。
今や子供の時代なのだ。
成熟することは、変化をやめることだ。
だったら成熟しなくてもいいじゃん?
「大人」になることなんてやめよう。
第一、「大人」かどうかなんて、その社会の規範に照らして決めるものであって、規範の崩れている今、本当の意味の「大人」なんてないんだろうし。
「成長の止まったもの」が「大人」なんじゃない。
「完成したもの」が「大人」であるべきだ。
時代の変化の真っ只中にいて、よく分からないまま勝手に「完成」してる場合じゃない。