進化


進化は新たな世代から始まる。
今西錦司氏がそう言っていた。
生物は、一個の突然変異によって突然変わったり、何代にもわたる生存競争の果てに徐々に変わったりしていくのではなく、新しい世代の一定数以上の個体が何らかの変化を受け入れることによって、一斉に変わってしまうものらしい。
全世界の猿が同時期に芋を洗って食べ始めたように、全世界のヒトの子供たちは、ある時一斉に二足歩行を始めたのかもしれない。


そして次の世代の主役は、今の主役の周辺の場所から現れる。
阿部謹也氏がそう言っていた。
それは産業にしても、国の興亡にしてもそうである。
現在活躍している産業や国は、一世代前の脇役だった。(自動車産業や、アメリカなど。)
そしていずれまた脇役になるのだろう。


これらのことは、全てのことに当てはまるのかもしれない。


加速しつづける時間と増えつづける情報量という環境の大きな変化に対応して、IT革命とともに人類の新たな進化が起こる予感がある。
その時、進化は新しい世代の、周辺部から生まれるのだろうと思う。


そして、そこで生まれる「ニュータイプ」は、情報の処理の方法が異なるのかもしれないと思う。

膨大な情報は、もはや個々の脳にしまっておくことはできない。
個人の脳にそれ程の容量はないし、陳腐化が激しすぎるからだ。
情報は共有化しなければいけない。
資料は個人の引出しから出し、共通のキャビネットにしまわなければいけない。
そうなると、どれだけの情報を持っているかではなく、そこにある情報から何が産み出せるかが重要になってくる。


脳はすでに知識の保有を外部記憶に頼りはじめている。
必要があったときは、ネットにアクセスすればよい。
情報を持っている人にアクセスすればよい。
その時、手のあいた脳は、別のことを始めるだろう。


その結果、例えば、他者にアクセスする能力が高まるかもしれない。
偶然性に意識的になり、ある種の勘が鋭くなったり、共感/共鳴する能力が高まったりするかもしれない。
それは、今は「超能力」と言われている範疇の能力であるのかもしれない。


全世界の猿が同時期に芋を洗って食べ始めたという事実からは、もしかしたら「テレパシー」のような能力は、もともと動物の持つ本能なのかもしれないと考えさせられる。
携帯電話はその不自由な代替物なのかもしれない。
言葉を持ってしまったために、人間は共感する能力を失い、他者から切り離され、自然から切り離されたのかもしれない。
仕方なく、人は道具を作り出したのかもしれない。


あるいは、多くの情報から本当に必要な情報を取捨選択する能力が高まるかもしれない。
「情報を集めて交換する」という、本来手段であるはずのものが目的化してしまった前世代の人間達とは異なり、新しい世代の人間は、どこででも手に入るようになり価値の下がった情報を、手段として使いこなせるようになるかもしれない。


脳は、情報のノイズで曇らされず、クリアなままで、「心の奥底から立ち昇る意思を処理するための一機能」という、もしかしたら元々そうであった役割を果たすようになるかもしれない。
そして、人は自分の心の奥底との対話を重視するようになるかもしれない。


いずれにしても、何らかの変化は新しい世代から生まれるのだろう。
そして、変化は周辺部から生まれるのだろう。


新しい世代の、周辺部の子供たち―ネオテニー度の高い、新しい人達の間から生まれるのだろう。
今は変化の時代の中で、引きこもりや登校拒否になりやすい子供たちの間から生まれるのだろう。


そして、今は犯罪や新興宗教でしか表現できない、新しいある意識が、一気に共有されるようになり、それが生かされ、生産的な方向に向かい、そしてそれが多数派になって世界を動かすようになるのかもしれない。


現実感のなさ。
生の実感の喪失。
本音と建前の乖離。
成長の終焉と閉塞感。


新しい世代には、この社会でなすべき役割は残されてはいないのかもしれない。
社会は、個人の欲望を満たすゲームをする場所を提供できなくなっているのかもしれない。


場所を提供することのできない社会には、社会としての意味がない。
社会とは個人の幻想の公約数を用意して、ゲームに参加させるための共同幻想の場所なのだから。
社会は個人のためにあるべきものなのだから。


何らかの形で変化は訪れるだろう。
世界は変わるだろう。


その時、我々の世代は中途半端で、どうしても主役にはなれない。


遅すぎた。
子供の頃、まだまだ世界は成長を続けているように見えた。
社会は人々の欲望を受け入れ、確固としているように見えた。

だけど、進路を選ぼうとしたとき、未来にはすでになすべきことは残されていないように見えた。
そして社会に出てからは不況が続き、閉塞感が漂い、誰も皆、なにかに耐えているような顔をしていた。
楽しいことは終わっていた。


あるいは早すぎた。
閉塞感はあっても、どうしたらいいのかは誰にも分からず、スポーツ選手は単身外国に行くしかなかった。
感じすぎる人たちは犯罪でも犯すしかなかった。
親は子供を虐待するしかなかった。
子供はキレるしかなかった。(ってことはないが。)
それらはあるいはネズミが大地震の前に騒ぎ出すような、何かの合図の身振りであったと後に言われるのかもしれない。(言われないのかもしれない。)


いずれにしても、我々の世代は中途半端で、人数は多いくせにはっきりしなかった。
我々の世代はもしかしたら、進化を妨害するものとして、打ち破られるべき敵として存在することになるのかもしれない。


少なくとも、中立でいつづけたいと思う。
「進化」がどのくらいの規模で、いつ頃起こるのかは分からないけれど、大きな変化はすでに始まっている。
今までの価値観、意識は壊されるだろう。


不安定なままでいることは大変なことだが、安定してしまったら大きな変化には対応できない。
進化の主体にはなれないことを自覚しつつ、それを見つづけていようと思う。