プロジェクト十

【無意味】
BGMは中島みゆきで。

会社が吸収合併された。
相手はインドの三流メーカーだった。主にスパイスなどを調合して販売していた。
うちは銀行だ。
日本は大丈夫だろうか。


そうは考えたものの、体力が自慢の肉体派な俺なので、というと聞こえが良いが、いや聞こえも別段良くはないが、要するに馬鹿なので、それ以上のことはよく分からなかった。
取りあえず、社名が変わるのであれば、看板を付け替えなくてはいけなかった。帳票類も変えなくてはいけなかった。出張旅費精算書の名前の所も変えなくてはいけない。そうだそれからゴム印も取り替えなくてはいけないのだ。当然封筒もだ。
パニックだった。
俺に対する挑戦であるとしか思えなかった。
ようし、こうなったら一丁やってやるか。


俺は猛然と腕まくりをし、ゴム印を掴み取ると、カッターナイフとのりで細工を始めた。
なんとか今の社名の形を生かして、新社名に加工することはできまいか。
俺の戦いは始まったばかりだった。


3日後、現状の形のままで削りだすことは不可能だと分かった。
うまく形が合わない。
それは当然だった。
漢字をヒンドゥー語に変えることには、最初から無理があった。
 

そこからが新たな挑戦の始まりだった。
俺は文字を細かいパーツに分解することにした。
まずはゴム印を白い紙にきれいに押し、それを拡大コピーした。そして印影の部分をきれいに切り取った。そしてそれを並べ替え、組み合わせる作業が始まった。
それは難解なパズルを解くような作業だった。
漢字からヒンドゥー語を作り出すのは、並大抵の作業ではなかった。
パーツは切り刻まれた。
一つの文字はおよそ100前後のパーツに分けられた。
直線、曲線、それも様々なRを持ったパーツが作られた。
頭の中には中島みゆきが鳴り響いていた。
何度も失敗を繰り返した。
徹夜の連続だった。
俺は諦めかけていた。
そしてまたいつの間にか眠ってしまったらしい。


夢うつつのなかで、俺はワープロを打っていた。
20年位前の古い機械だ。
なんて使いづらいんだろう。
技術の進歩の速さよ。
当時はこれでも便利だと思っていたのだ。
しかし、液晶画面は1行だし、プリントアウトだって荒い。
確か一文字が16×16のドットでできているのではなかったか…。


ひらめいた。
俺はその瞬間飛び起きていた。
誰もいないオフィスに、朝日が差し込んでいた。


俺は、文字を細かい正方形に切り分け始めた。
そうだ、どんな文字もドットから成り立っているのだ。
切り分ければ、どんな文字だってできるのだ。
俺の顔は晴れ晴れと輝いていたはずだ。


5時間後。
ドットが足りなかった…。


だがそれはたいした問題ではなかった。
技術的な問題に過ぎなかった。
正方形の大きさを変え、変更後の文字の大きさを調整することで解決がついた。


しかし、次はそれを実際のゴム印で細工する作業が待っていた。
これが、実に困難を極める作業であった。
拡大コピーを使って組み合わせを考えていたために、実際のゴム印の大きさのことはすっかり忘れていた。
実物では、0.5ミリ四方に切り分ける必要があった。
一瞬諦めかけた。
だが気を取り直した。
あの朝のひらめきは、神から俺へのメッセージだ。
できないはずがないのだ。


作業には拡大鏡とピンセットと爪楊枝とアロンアルファを使った。
米粒にお経を書くような作業が続いた。
何度も全てを投げ出してしまいそうになった。
しかし、諦めるわけには行かなかった。
業界再編の苦労とはこういうことなのだ。
誰もが通り過ぎなくてはいけない苦労なのだ。


一週間後、ついに俺は、誰もが不可能と考えた大事業を、ひとりで成し遂げていた。
俺の体はぼろぼろだった。
しかし、俺の心は高揚していた。
世の中に不可能なことはない。
誰だって夢はつかめる。
諦めなければ、夢は叶うのだ。


俺は早速上司に報告した。
「課長!ついに成し遂げました。」
「ん?えーと、ああ、君か。今ごろどうした?」
「はい!ゴム印です!」
「ゴム印?」
「ええ、そうですとも。これです。これが旧社名から現在の社名に作り替えたゴム印なのです。」
「ああ、ゴム印ねえ…。どれ?うわ、えらく汚いなこれ。ちゃんと写るの?しかもこれ、なんかヒンドゥー語じゃん。なんだよこれ使えないよ。新社名カタカナだよ。おおーい、桜井君、ゴム印やなんか手配してくれたんだよね。」
「はい、ずいぶん前にしましたよ。ゴム印や封筒、帳票類なんか一式、全部段ボールで届いてます。」
「ああ、そうだよね。ありがとう。…だってさ。だからいいよ、コレ。いらないよ。はい。
 それより君さあ、悪いけど新会社で席ないよ。最近見かけなかったからさ。雇用契約結んでないだろ?仕方ないよね。悪いけどね。」

 
俺は夢と引き換えに職を失った。