渚のエキゾチック係長

【無意味】
そういう生き方。

渚のエキゾチック係長。
係員はいない。
机一つと椅子一つ。
引出しは共有だ。
海の家のロッカーだ。
冬の間は閉まっている。
不便だ。
不便この上ないのだ。


一日の大半は掃除だ。
机や椅子がすぐにべとべとになるのだ。
潮風のせいだ。
渚だからだ。


掃き掃除はもっと大変だ。
砂だらけだ。
渚だからだ。


半径2メートル以内に砂があってはいけないのだ。
課長の業務命令だ。
課長はきれい好きなのだ。
だが見に来たことはない。
それでも掃き続けるのだ。
まじめだけがとりえのエキゾチック係長なのだ。
半径2メートル以内には一粒たりとも砂はないのだった。


そのため地中深く潜るような形になっていた。
周囲は砂の壁だった。
日当りが悪かった。
渚の蟻地獄と悪口を言われた。
しかしそれが仕事なのだ。
課長の業務命令なのだ。


よく間違えて人が落ちてきた。
それを助け出すのが主な仕事だった。
大概こてんぱんに怒られた。
それに謝るのが次の主な仕事だった。

課長の趣味で、とは言えなかった。
組織に生きる人間として、それを言ってはいけなかった。
しかしなんとか納得してもらわなくてはいけなかった。
そこが腕の見せ所だった。


企業秘密です。


極秘の任務を遂行しております。


北朝鮮のスパイを見張っているのであります。


大気中に蔓延する電磁波の影響が地中においては少ない為に人体実験を行っているのであります。


たいていこれらでカタがついた。
最悪殴られて終わりだった。
誰もが一刻も早くその場を立ち去りたい様子であった。


後は一日中掃除だった。
それで毎日8時間が過ぎていった。
時給300円だった。

決して割のいい仕事とは言えなかった。
しかし、まじめだけがとりえのエキゾチック係長なのだった。
決してさぼることはしなかった。
来る日も来る日も業務に励んだのだった。


そして勤続30年であった。
皆勤賞であった。
出世もした。
ただし係長どまりだ。
係員はいない。

家も手に入れた。
ただし海の家だ。


だが最近ふと物思いに耽ることが多くなった。
私は一体なにをやっているのだろうか。
私の仕事ってなんだろうか。
私は何かに貢献しているのだろうか。
そもそも仕事ってこういうものなんだろうか。


素だった。
完全に素に戻っていた。
しかし遅すぎた。
すでに勤続30年だった。
50の歳に手が届いていた。
人生をやり直すには少々遅すぎた。


そもそも私はどこに就職したのだろうか。
それすらよく思い出せなくなっていた。
歳のせいだった。
そういえば課長って誰だったのだろうか。
それもよく思い出せなかった。
記憶が定かではなかった。
やはり歳のせいだった。

最後に課長の姿を見たのはいつだったのだろうか。
逆光でよく顔が見えなかった。
何かしゃべっていた。


わが国経済は混迷を極めており当期業績の低迷の為全社を挙げて士気高揚をもって挽回にあたらねばならんことは言うまでもなく当係においても今まで以上の奮闘を期待する。
行状の省妙なる現才をもって業態の厳明を伐入すべし。
玄妙論壇、韜晦損耗たることを業陣す。


意味がよく分からなかった。
水の中でしゃべっているように不鮮明だった。
そんなことは言っていなかったのかもしれなかった。


後頭部が痛んだ。


いや、それは入社当時の記憶だったのかもしれなかった。
そうだ、確か入社式で聞いたのだった。
社長がしゃべっていたのだった。
半分眠っていてよく聞いていなかったのだった。
あの時もう少しよく聞いていれば、こんなことにはならなかったのだ。
手がかりはつかめた筈だったのだ。
あそこで人生を間違えたのかもしれなかった。


いや、ことによると戦争中のことだったかもしれない。
軍曹殿が言っていたことではあるまいか。


群論独演たる戦況に於いて、諸君の原審たる独論、頑逸なる専横、皇嘉一心の戦場を謳歌すべし。


ところで私は戦争に行ったのだろうか?
戦った記憶がない。
そのころはまだ生まれていなかったような気がする。
戦後生まれだ。
万博の年だ。
しかも筑波万博だ。


一体いくつだ?
なぜ勤続30年なのか。
計算が合わなかった。

もうなにがなんだか分からなかった。
砂まみれだった。
べとべとしていた。
渚だからだ。


後頭部から血が流れていた。
だからべとべとしていた。
砂まみれだった。
どうやら落とし穴に落ちたらしかった。


徐々に意識がはっきりしてきた。
今まで意識を失っていたのだった。
夢を見ていた。

まだ頭の後ろが痺れていた。
頭の中でテレビのチャンネルを変えるように景色がかちゃりかちゃりと切り替わっていた。
だがその感覚も徐々に薄れてきた。
現実の感覚が戻ってきた。


夢か。
良かった。
30年も砂浜で掃き掃除を続けているような人生ではなくて。
だいたいなんだその人生。
エキゾチック係長?
阿呆か?

まあいい。
俺は起き上がろうとした。
しかし体が動かなかった。
おかしいな。
再度力を入れた。
やはり動かなかった。


すうっと寒気が走った。
嫌な感じがした。


ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ


上のほうから音が聞こえてきた。
そして砂が降ってきた。
大量の砂だった。


ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ


砂は降り止むことなく、徐々に俺の体を覆っていった。
手足を、体を、顔を。
すぐに何も見えなくなった。
体は動かなかった。
息が苦しかった。


記憶が戻ってきた。
とても嫌な記憶だった。


ああそっか。
殺されるんだな、俺。
殺されるのも無理ないなー、これ。
分かる分かる。
そう納得できるような記憶だった。
それはもう、嫌な記憶だった。


ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ


これ思い出さないほうが良かったなー。
エキゾチック係長の方が良かったなー。
ある意味楽しそうじゃんなー。


あれは本当に俺の夢だったんだな。
夢から覚めない方が良かったな。
今度はあんな人生がいいな。


それが俺の最後の意識だった。


ざっ、ざっ、ざっ、ざっ、ざっ…


砂はいつまでも降り注いでいた。
エキゾチック係長の上に、降り注いでいた。
係員はいなかった。