草津

【無意味】
土産と資本主義についての考察。

 
遠い所に行きたい。
何もかもを忘れて、しがらみを振り捨てて、遠い所に行ってしまいたい。


そう言って旅立った父は今年で還暦だが、旅らしい旅はその時一度限りだったらしい。
その時は結局、草津に一泊して帰ってきた。両手に抱えきれないほどのお土産を持って帰ってきた。
何も忘れていなかったし、しがらみでがんじがらめだった。


私はそんな過ちは繰り返さない。
だからお土産は一切買ってこない。
いや違うって。面倒だからとかそんなことじゃなくて。いや金がもったいないとかそういうことでもないしさ。過ちがね。遠い所の。いや分かる?分からないかなあ。漂泊の。男の浪漫が。いやごめんごめん違うって。


私はしどろもどろになり、結局お土産を買って帰った。
草津に行ってきましたと書かれた饅頭だった。
言い忘れたが私も草津に一泊したのだった。


後に、○○に行ってきましたと書かれた饅頭が全国的に販売されていることを知り、私は愕然とすることになる。

そんな、パッケージを変えただけのようなものが、全国的に販売されていてもよいものだろうか。
土産物というのは、その土地ならではの伝統的な製法であるとか、その土地で取れる特産物などを使用して、その土地で加工された珍しいものであるべきなのではないのだろうか。
それなのに、全国一律同じ工場で製造されたものを、パッケージだけ変えて各地に出荷して、それをわざわざ各地に赴いた人間が買うなどというのは全く馬鹿げたことなのであって、これでは誰かが投げたフリスビーをわざわざ走って喜んで取りに行く犬と何ら変わるところはないのである。
それであるならば、むしろ製造した場所、例えば東京などにおいてそれを購入することにより、「全国各地の名前が記された饅頭を製造できる珍しい場所である所の東京に赴いて、草津と書かれた饅頭を買ってきたのだ」という意味において土産物として成立するのであって、それが草津で販売されているという事実は、単に物流体制が整っていることを意味しているにすぎず、それはむしろ一極集中型の体制の成果であり、一極集中型への賛歌であり、草津という特別であるはずの場所は、ここでは「たくさんある観光地の一つ」という隷属的な立場に変えられているのであり、つまり土産という概念に真向から対立するのである。全く無意味なのである。


と、かいつまんで言うと概ねこういうところを、より詳細にくどくどと述べたてたのであるが、家人は全くそんなことは聞いてはおらず、どうでもいいがもう少し気の利いたものはなかったのか、こんなどこででも買えるようなものを買ってくるお前が阿呆だこの間抜け面、と罵りつつ、一つ残らず饅頭を平らげたのだった。


遠い所に行きたい。
何もかも忘れて、しがらみを振り捨てて、遠い所に行ってしまいたい。
私は涙目でそう思った。