ミラン・クンデラ

「存在の耐えられない軽さ」 

(人間の生活)はまさしく作曲のように構成されている。美の感覚に導かれた人間は偶然の出来事をモチーフに変え、そのモチーフはもうその人間の人生の曲の中に残るのである。

(女たちは)個体であるという幻想をかなぐり捨て、誰もが同じであることに幸福を感じていた。

自分たちが一人一人同じで、区別ができないことを望んでいる女たちは、自分たちの同一性を絶対的なものとする。来るべき死を祝っているのである。

それはめまいであった。酔わせるような、落下への抵抗しがたい願いであった。めまいを弱さからくる酔いと名付けることもできよう。人間が自らの弱さを意識すると、それに立ち向かおうとはせずに、むしろ服従しようとする。

裏切りとは隊列を離れることである。裏切りとは隊列を離れて、未知へと進むことである。サビナは未知へと進むこと以外により美しいことを知らなかったのである。

結局、どの語も正確ではなくなり、その意味は消されていき、内容を失って、そこからごみや、もみがらや、埃や、脳の中をさまよい、頭を痛くさせ、彼の不眠や病気となる砂が出てきた。そして、その瞬間に彼はすごく大きい音楽、絶対的な騒音、何もかも包み込み、それで満たし、音を聞こえなくする、美しくて陽気な騒ぎ、その中では永遠に痛みや、無用さや、ことばのむなしさが消えていく騒ぎをぼんやりとではあるが力強く切望した。音楽とは文の否定、音楽とは反語である!

サビナにとって生きることは見ることであった。見ることは目をくらます強い光と、まったくの闇という二つの限界により制限される。

極端とはその境界の向う側では人生が終わる境界を意味し、極端への情熱は芸術においても、政治においても死への憧れが秘められている。

人生のドラマというものはいつも重さというメタファーで表現できる。われわれはある人間が重荷を負わされたという。その人間はその重荷に耐えられるか、それとも耐えられずにその下敷きになるか、それと争い、敗けるか勝つかする。

彼女のドラマは重さのドラマではなく、軽さのであった。サビナに落ちてきたのは重荷ではなく、存在の耐えられない軽さであった。

人間がそこを目指して進む目的地はいつも隠されているものである。

私の小説の人物は、実現しなかった自分自身の可能性である。

私がただその周囲をめぐっただけの境界を踏み越えている。まさにその踏み越えられた境界が私を引きつけるのである。その向う側で初めて小説が問いかける秘密が始まる。

小説は著者の告白ではなく、世界という罠の中の人生の研究なのである。

存在との絶対的同意の美的な理想は、糞が否定され、全ての人が糞など存在しないかのように振る舞っている世界ということになる。この美的な理想をキッチュ(俗悪なもの)という。

世界のすべての人びとの兄弟愛はただキッチュ(俗悪なもの)の上にのみ形成できるのである。

キッチュ(俗悪なもの)とは死を覆い隠す天幕なのである。

人間の時間は輪となってめぐることはなく、直線に沿って前へと走るのである。これが人間が幸福になれない理由である。幸福は繰り返しへの憧れなのだからである。