人生ゲーム

人は(特に男は)、自分の中に何もない不安からか、すぐになんらかの目的をもった集団の中に自分を同化しようとする。
その対象は、スポーツのチームであったり、企業であったりするし、国家であったり、民族であったり、宗教であったりもする。
別になんであってもいいのだ。
集団の中で役割を果たし、認められることで、個人の存在する「意味」は大きくなる。
自分を超えたものの役に立っていると感じ、自我は拡大する。
つまりは楽しい。快感だ。
しかし、ふと冷静にその集団の存在する意味自体を考えた時、やはりそこにはたいした目的などはないのかもしれないと気づく。


スポーツは当然にゲームだし、企業で別にいりもしないものを作って売っているくらいならまだそれほどの害もない。
(もっとも、つまらない物を作るために地球環境を破壊するとしたら、大きな害もあるが。)
しかし、もっと大きな、国だの民族だの宗教だのといったもの同化しようとすると、次第にキナ臭くなっていく。
同化する対象が大きくなればなるほど、個人がそこで得られる幻想の物語も大きくなり、大きな陶酔も得られるのかもしれない。
しかし、対象が大きくなっても、たいして意味がないことには変わりはない。
国家といっても、恣意的な枠組みだ。
民族も宗教もフィクションの一種である。
別に自分達だけが正しい訳はないのであって、対立しても意味はない。
そして国家間の、民族間の、宗教間の、戦争という話にでもなれば、それこそ最大の無意味である。
いくら「聖なる」「正義の」などという言葉をつけようと、絶対的正義などはなく、結局は集団自殺行為。破壊と、命の蕩尽。
「客観的に真に意味のある目的」など、何もないのかもしれないと思う。


真に人類の役に立つ、意味のある「目的」とはなんだろうか?
発明や発見のようなものだろうか。
しかし、それはなんの目的で使われるのか。
そう考えると、この世界にたいしたことはないのかもしれないと思えてくる。


何でもいいから、とにかくまず目標を設定して、それに向かってエネルギーを向けることが大切だ。
目的に達するまでの過程をいかに楽しく、充実させるかが大切だ。
目標に向かうまでの間の、苦と楽のリズムを味わうこと、人生の音楽を奏でること自体が目的なのだ。
これは1つの結論だ。
しかし、どんな音楽を奏でてもいいんだろうか?
 

人は何に対して快感を得るのだろうか。
例えば、何かを創り出し、残すこと。
異性との関わり。
新しい技術を習得していくこと。
成長する喜び。
…それらは自己の保存の欲求。


勝つこと。
チームに貢献すること。
賞賛されること。
他人やチームの役に立つということ。
…それらは種の保存の欲求。


ギャンブルの快感。
祭りの快感。
働いてため込んだ金(過剰)を無駄に蕩尽するということ。
自分を運命の偶然の前に投げ出すということ。
運命の前で全ての人間が平等に、一体になり、日常の差異と関係性が消え去るということ。
…それらは死の欲求。


いまや、それらはゲームのなかにしかない。
天敵がいたなら、生命の危険にさらされていたなら、種を保存するための行為が大きな快感を得るのは生物としての当然のプログラムだ。
生物が、自らと自らの種が生き残るために戦うことは、「客観的に真に意味のある目的」だろう。
群れる動物としての人間が、集団に同化しようとすることは健全だろう。
しかし人は天敵を失ってしまった。
自然を飼い慣らし、病気を克服し、死はあまりに日常から遠いものとなってしまった。
だから人はゲームの世界で快感を得る。
スポーツも企業活動も国家も民族も宗教もその全てがフィクションで、大きくはゲームの一種だ。
人間とは遊ぶものなのだ。


だけど、生物としての本能を忘れ、狂った感覚で、ゲームに興じているだけでいいのだろうか。
何か大きな間違いを犯すことになるのではないだろうか。
イデオロギーの対立がなくなったら、宗教や民族の対立が生じ、世界はより不安定になったように見える。
世界の資本主義化は、貧富の差を激しくしているように見える。
生活に必要とする以上の物を作り出すことによって、地球環境は破壊されているように見える。
「遊び」だからって、好き勝手にやっていればいいって訳にはいかないような気がしてくる。
人間は間違った方向に進んでいるのか?
やはり人間は自然の輪からどうしようもなくズレてしまった、地球の癌細胞に過ぎないのだろうか。
それとももっと大きな意図があるのだろうか?
「意味」とか「目的」を知りたい、知っておきたいという欲求はどうしても起こる。


生物の存在の意味は、それぞれが生き続けようとしながら、互いに食ったり食われたりし、全体として連鎖の輪を作ってバランスを取り合っているというところにあるのだろう。
生命とは、「開放系エントロピーの中のネゲントロピー」である。
「闇の中で一瞬きらめく光」である。(宮崎駿
カオスの中にある秩序である。


物質は散らばっていく。
熱は冷めてゆく。
鉄は錆びてゆく。
死への大きな流れに逆らおうとする意志こそが生である。
そうであるから、熱を一定に保ちつづけようとする地球は「生きている」。
地球の意志の行使のための具体的な手段こそが生命なのかもしれない。


それではその中で知恵を使って神の領域に近づき、食物連鎖の輪から外れてしまった人間の生にはどんな意味があるのだろうか。
人間の存在にも何か意味があるとしたら、それはやはり地球の熱のバランスの維持に大きく関わるはずだ。
その中で人間は、自分達のスケールを越えた急激な変化をもたらそうとしている。
石油を燃やし、ウランを反応させ、地表をコンクリートで覆い、化学物質を作り出し。
それはやはり地球に急激な死をもたらそうとしているのだろうか。
それとも人間の思惑を超えた所で、地球の役に立っているのだろうか。


人間の特徴は脳にある。
人間の脳は異常に発達している。
脳は自己目的的に活動する。自分の存在を維持するために活動する。


例えば、学生時代は暇だから、いろいろと訳の分からない事を考え出す。
囲碁や将棋やパズルなどの、脳のエネルギーの無駄な消費がもてはやされる。
会社のスタッフ部門は、暇だと余分な仕事を創り出す。
電話、ファックス、パソコン、電子メール、グループウエア…世の中に便利なものが溢れ、仕事は効率化されて楽になってもいいはずなのに、ちっともそうはならない。その分余分な仕事が増えている。
脳は改善をしていく途中のブレークスルーの瞬間こそが楽しいのであって、その結果空いた時間にやることがないことには耐えられないのだ。
だから無理に別の仕事を作って、空いた時間に詰め込む。


きっと人の存在の仕方自体が「脳」的なのだ。
考え、創り出すことが重要なのであって、最終的な目的は問わないのだ。


情報化とは、脳が細胞を張り巡らせること自体を目的とするように、地球上に情報網を張り巡らせることこそが目的なのかもしれない。
そこに流れている情報の内容は二次的な問題だ。
脳は目的を設定しない。
与えられた問いに答えを出すだけだ。
問いは感情が発するものだ。
そして感情は肉体側のものだ。
人は胃腸や手足で感じ、欲求する。


しかし、肉体が感じられる感覚には限界がある。
限界を知らない脳は、やがて肉体を置きざりにして快楽のイメージをどこまでも肥大させて暴走する。
肉体的な快楽は、もはや脳の創り出したイメージに追いつくことはできない。
だから目的を設定することにたいした意味はない。
設定された目的に向かって活動するのが脳であり、今や快感は肉体を置き去りにした脳が感じるものなのだ。
だから過程が重要なのだ。


脳は自己の複製を外界に残そうとする。
情報化社会。
電脳空間。
それは比喩ではない。
人間は地球の脳である。
脳は加速する。
イメージは止まることがない。
仮想現実のなかで、現実の物質の重さから自由になり。
ますます軽やかに。
思考は至高を志向する。
情報量は増大する。
0と1のデジタル信号は明滅して光になる。
光ファイバーはそれに符合する。


…イメージは加速する。
物質の重さと時間と空間の制約から自由になって、軽さとスピードとを志向するというのは、「肉体に閉じ込められた霊が軽さを志向する」ということと対応している。
物質も重さも時間も空間も自他の区別すらないのは、夜見る夢の世界だ。
意識の奥底で、世界は一つに繋がっているのかもしれない。
それはユングの共同無意識の世界。
それは老子の「道」の世界。
それはかつての共同体にあった、預言者やシャーマンや錬金術師たちの世界。

科学重視のなか、それらは客観性を持たないために捨てられたけれど、間違っていると言い切れるわけではない。
科学が袋小路に入りこみ、量子力学やカオス理論によって揺さぶりをかけられている今、別の世界が力を持ち始めても構わない。
その方が面白い。 
 

肉体の側から感じてみることが必要だ。
地球を宇宙から俯瞰してみる視点が必要だ。
瞑想して、心の最も深い場所を探るような。

人間はゲームをしている存在だ。
スポーツも企業も国も民族も宗教も、本当に深刻なことなど何もない。
しかし隠された目的は存在するのかもしれない。


それはエントロピーを増大させて地球の死を早めることか。
移動速度を上げ、情報網を張り巡らせて距離の壁をなくし、一つを目指すことか。
それはどちらも「統合」へのベクトルだ。エントロピーの増大への方向だ。

 
こんな世界の片隅で考えてみた所で、当然答えの出ることではないけれど。
今や大量生産大量消費社会は地球の環境を破壊し、人間の生存を危うくする所にまで至った。
誰もが変わらなくてはいけないと思っている。
変化の予感と潮流がある。
資源の大量消費に歯止めをかけてなくてはいけない。
バランスをとりながら、情報が価値を生み出す社会を作り出そうとしている。