道徳

共同体の崩壊が進んでいる。
何が新しい道徳・倫理たりえるのだろうか。


今まで、日本で道徳の基礎になっていたのは「世間体」だった。
絶対的な神が信じられていない日本では、「世間の目」という他者が、個人を律していた。
世間と同じか、もしくは逸脱しない範囲内でちょっと上を目指す。
同質であることを求め、その中で安心する。
そこから少しでも逸脱することを恐れる。
「仲間内のルール」が絶対的な「神」として存在していた。


学校は大人社会の極端な縮図になっている。
それは、猿山の猿が野生の猿以上に厳密な猿社会を築くように。
大学の学内政治が現実の政治より政治的であるように。
小さい社会では、大きい社会のルールとその歪みが極端な形で現れる。
そしてそこで「いじめ」が問題になっているとすれば、「世間」というルールは続いているのだろう。

しかし、一方で、「学級崩壊」、「キレる子供」という現象を見ると、「世間」という拘束力はかなり弱まっているのではないかと思う。
グループ内にいるためには、瑣末な約束事に従わなくてはいけない。
しかしグループが求心力を失ってくれば、そんなルールに縛られる必要はなくなる。
それは、企業に余剰人員を抱える余裕がなくなり、終身雇用制が崩れて、能力主義などと言い出した時期ときれいに対応している。
「世間」はそれほど確かなものではなかった。


しかし、そうして世間のルールの面倒事から解放されて自由になったとしても、日本人は強烈な孤独を感じるだろう。
西洋には絶対的な「神」がいる。だから人は独りであっても、神とつながっている。
人は神に対して、多対1の関係で結びついている。だから「個」が確立できる。
しかし、日本には絶対的なものがない。共同体が唯一の神であったのだから、それが崩れた後に神は存在しない。孤独しか残らない。
では、何が新しい「神」たりうるのか。


その代替物のひとつは、実は以前からずっと強い力を持ち続けていた。
テレビである。
テレビは、共同体が崩壊していくのと同時に新しい共同体となり、世間となった。
それまで、個人を律する「世間の目」とは具体的な地域だったが、それはテレビカメラに取って変わられた。
人はテレビに多対1の関係で結びついている。
テレビのワイドショーが、新興宗教や、ルールから外れた人を執拗にバッシングするのは、テレビが宗教だからだ。だから違う宗派を攻撃するのだ。
そうして、ギリシャ神話の神々のような芸能人達のきまぐれな「神話」を映し出す。
テレビが映っている時、人は世界と繋がっていると感じる。
テレビの世界の時間の流れが世界の時間の流れになる。


しかしテレビは不完全な「神」である。
テレビは道徳を作り出さない。
テレビを支配するのは視聴率で、つまりは快/不快の原則でしかない。
テレビが道徳を作り出すとしたら、「面白い=善/つまらない=悪」くらいのものであろう。
また、テレビは関係を作り出さない。一方的な情報の流れだ。
テレビは選択権のみを与え、絶対的な服従を強いる。
そこでは人は王様であり、同時に奴隷である。
「共同体」とは規範であると同時に、影響を与え、与えられる、相互に関係を体験し成長する具体的な場所だ。
テレビは共同体の代替物としてはあまりに不完全である。


そこでテレビゲームが進化した。
ゲームは自分が影響を与え、与えられるものだ。
そこには擬似的ではあるが関係があり、体験し参加することができる。


そして次にインターネットの急速な発達があった。
そこでは誰もが情報を受発信することができ、具体的な他者との出会いがある関係の場である。

具体的な共同体が崩壊した後、仮想現実の世界での共同体の形成が進んでいる。
その方が「快適」だからだろう。
自分は安全な場所にいて、傷つくことがない社会。
わずらわしさがなく、何時でも関係をリセットできる社会。

そして現実社会での結びつきは、ますます希薄になっている。クラスが維持できなくなるほどに。
場所という現実の制約を離れた、新たな自由な共同体の創造の試み。
それは新たな共同体になりえるのだろうか。


電脳社会などというが、まさに「脳」的である。
脳は自己目的的にネットワークを張り巡らし、増殖していくものだ。
しかし脳に目的はない。
脳は自分を維持するために、そこに何かが流れていればいいのだ。
ネットワークの中を流れる情報の質は問わない。


人間の特徴は脳が異常発達した存在だということ。
だからその特徴を現実の世界に投影する。
自己の複製を作り出すのは自然なことではある。
しかし、人間のあり方自体が偏っているとすれば、自然と調和させるべくバランスを取ることも必要だ。


脳は考えることだけはするが、そもそもの目的を設定するのは感情の側である。
そして感情を作り出すのは脳ではなく、自然の側に属する肉体である。
今はあまりに脳の側に偏り過ぎている。
それだけでは、無目的に暴走するかもしれない。


「どう見られたいかじゃなく、どうありたいか。スモーキン・クリーン。」
これはJTのCMだけど。そういうことではないか。

見られる対象である現実の世間が崩壊したとき、最後に残る拠り所は、「自分がどうありたいか」だけではないか。
それは、脳で考えることではなく、もっと全身的な、存在のあり方に関わる意志のようなものだ。
個人の責任が問われる。


「ゆるやかな個人主義」―天才・山崎正和氏が70年代に唱えたテーマである。
今や、個人は名もない労働者でも、名もない消費者でもない。
個人は、働きながら、消費しながら、別の場所にも所属し、インターネット上でも情報を受発信することができる存在となった。
企業に、市場に、仲間内に、ネット上に、多重的に緩やかにつながりながら、それぞれの場所で「誰か」でありうるという、新しい社会が作られる条件はそろった。
いくつもの社会に横断的に所属していてもいい。
重く降り積もっていく関係性から逃れて自由に在る。


しかしその希薄な関係性の中に規範は生じないかもしれない。
その時全ての責任は自分に帰す。
その時に、自分を超える大きな者の存在を信じられたら。
人々を「貫き回ってる、緩やかな、止まらないルール」の存在を感じられたら。

全体の中に個は含まれるが、個の中にも全体は含まれる。
自分の中には、常に自分を見ているもう一人の自分がいる。
どんなときにも変わることのない自分。
次々に湧き上がっては騒ぎ立てる自意識の独り劇を、後ろで静かに眺めているもう一人の自分。
その目から逃れられない。
その存在を実感し、その声に耳を傾ける。


そして人にどう見られたいかじゃなく、どうありたいかを選択する。
人々の間に、長さの決まった物差しはない。
それはみんなの合意で決められていく尺度なのだから、長さはすぐに変わっていく。
変わることのない基準は、それぞれ個人の内にしかない。
次の時代の道徳はそこからしか生まれてこないのではないか。
それは自分の中に生まれた新しい「神」だ。

例えば、来世はあり、カルマは残るとしたら、罪はいずれ償わなければいけない。
自分の中のもう一人の自分はそれを見ている。
世間の目はなくても、ごまかしはきかない。
だから、自由のなかで、敢えて不自由を選び、倫理を重んじることがあってもいい。
自ら設定した不自由の中にこそ自由がある。そんな考え方があってもいい。


そのために、自分を超えた大きいものの存在を信じられるかどうかが重要だ。