多忙


連休明けや出張の後、机の上には紙の山。PCの中にはメールの山。やらなきゃいけないことが溢れている。
うおおおーーー!!発狂しそうになる!
…そんな経験は誰しもお持ちのことでしょう。


そんな時、手帳の後ろに書いてあった「タイム・マネジメント」の手法はかなり役に立つ。
処理しなくてはいけないことを取り敢えず全て列挙してみる。
その際自虐的な気分で、もしくは自分がやるとは思わずに、思いつく限り挙げてやるのがポイントである。
敵の正体が明らかになると、不安は軽減される。
「漠然とした重さの感覚にため息をついたまま何もできない」という状態から、「リスト化された仕事の量をにらんでため息をついたまま何もできない」という状態にランクアップ!

しかし、にらんでいるうちに量に慣れてくる。不安は軽減していく。
リストを消していくという目的が生まれ、消すこと自体が快感になっていく。
ブロック崩しテトリスの快感だ。
次々と襲い掛かる仕事を消していくのだ。


この方法はとりあえず実用的だ。
目的ができると、人は安心するのだ。
スタッフ系の仕事には、厳密な納期というものが存在せず、「可及的速やかに」という仕事が多い。
速やかにやらなくてはいけないもの、速やかにやった方がいいもの、そのうちにやった方がいいもの、やればやるにこしたことはないもの、やりたいもの、その他突発事項…。
客先も納期もなくて楽だと思われがちだが、どうでもいいことも含めてそれらが10も20も30もたまっていくと、そこには漠然とした重さの感覚だけが残る。
しかもマイナスをゼロに戻すような仕事が多く、後には何も残らないことが多い。
すると不安になる。無力感に襲われる。
延々と降りかかる落ち葉を掃きつづけているような、砂漠で砂山を築きつづけているような気分になる。
…地獄だ。


たとえ幻想ではあっても、自分が前進しているという感覚が欲しくなる。
前進している感覚。成長している感覚が欲しい。
リスト化された仕事を処理し、スケジュールを埋め、その上、資格とかの目標を設定してそれに向かって勉強すれば、もう完璧だ。
かなりの充実感を味わえる。
そのリズムの激しさはロックンロールかテクノか。
ゲームウォッチで次々に落ちてくる障害物でもあるし、矢印の降り注ぐダンレボでもある。
しのいでいく快感がある。


しかし、その充実感の中で、ふと気づくと、どうしても自分をだましているような感覚は残る。
頭だけを隠してもがいているような感覚だ。
やはり空しい。
自分は忙しさのなかに逃げ込んで、何を見ないようにしているのだろうか。どこから逃げているのだろうか。(※)


会社という「村」の中で共通のルールのゲームをしていれば、自分は必要とされているというような気にもなってくる。
ましてや忙しくしていれば、そこそこの自己有能感も得られる。
資格なんかを目指していれば、成長しているという実感まで得られる。
だけど、それがどれほどのことだろうか。
自分のやっていることに、何か意味があるんだろうか。
いや、そもそも世の中にそれほど大きな意味のあることなんて、あるんだろうか。


世の中にはきっと、本当にすごい人がいて、本当に人類にとって有用な、本当にその人にしかできない、とてつもなく大きい仕事をしているのだろう。
…なんてことは嘘で。
そんな人はどこにもいないんじゃないか?
実は偉そうにしていても、たいしたことはやってないんじゃないだろうか。
人物伝とかを読むと、悪いけどそんな気がしてくる。
ましてや若手ビジネスマンが颯爽とモバイルで資料作成?情報収集?なんて一体何してるやらだ。
仕事をしてればまだマシ。でも仕事ったって、「ゴムひも販売促進プレゼン資料作成」とか、そんなんじゃないの?下らない。(すいません別にゴムひもに恨みはありません。)


誰も皆、不安とか孤独が怖いから、取り敢えず忙しくしている、というのが本当のところではないだろうか。
立ち止まって自分と向き合うことが怖いから。
自分が取るに足らない存在だと気付いてしまうことが怖いから。
自分と向き合うと、そこには意外と何もないことが分かったりする。のかもしれない。
与えられた役割なんてものはない。
自分にしかできないことなんてない。
生きることにたいして目的なんてない。
ゴールなんてものはない。
しかしそれでも生きなくてはいけない。


人はそんなことに気づきたくはないから、出来事の中に没入し、忙しく働き、脳内麻薬を分泌してワーカホリックになる。
それはある種の逃避だ。
「現実逃避」じゃなくて、「現実への逃避」だ。


生きることに、目的なんてものはないのだ。
意味も、自分にしかできない役割も、そんなものは滅多にないのだ。
生命とは生きるという意志そのものだ。
その意志に根拠はない。
根拠なき意志こそが「生」なんだろう。
生は過程そのものなんだろう。


人生はロールプレイング・ゲームだ。
単純作業で経験値を積み、レベルアップしていく快感を味わうのだ。
今まで倒せなかった敵が倒せるようになっていく快感。
世界が広がっていく快感。
それら、本当はゲームクリアという最終目的のための手段であるはずのものは、目的になる。
面倒な経験値稼ぎですらが目的化しうる。
それは倒錯だろうか?


いや、最終目的というのは、ゲームが終わることに過ぎない。
人生では死がそれに該当するのではないか。
それは目的ではない。
ゲームにしても、エンディングはおまけで、過程こそが目的そのものなのだ。


人生は、喜怒哀楽を味わうための舞台だ。
人生楽ありゃ苦もあるさ。
人生はそういう設定なのだ、きっと。
喜と怒と哀と楽と緊張と緩和と昼と夜と過剰と蕩尽のリズムとメロディーこそが人生で、人生とは音楽だ。
なんだか例えが途中で変わってるが、まあそういうことなのだ。


ゲームを始めた以上、経験値を積み、決められたイベントを経験して、クリアしなくてはいけない。
音楽が始まった以上、リフレインを繰り返しながら、それは最終楽章まで演奏されなくてはいけない。


その過程での緊張と弛緩や、不安と安堵や、喜怒哀楽のリズムを全てしっかりと味わうことこそが、目的といえば目的であり、意味といえば意味なのであって、マイナス感情もひっくるめて、それが面白いところなんだろう。
そしてその中で、結構面白くて、結構満足していれば、それでいいんだろう。


それは結局、「いまを生きる」って、映画のタイトルみたいなことでもある。