光と闇〜芸術家〜

ジミー・ヘンドリックスは「頭のなかの悪魔がオレにギターを弾かせる」と言ったという。
芸術家は誰でもその頭の中には悪魔が住んでいるのだろう。
その現れ方が個性であり、その伝え方が技術である。
頭の中に悪魔がいなければ、いくら技術があっても「職人」であり(それも素晴らしいが)、頭の中に悪魔を飼っていても、それを伝える技術がなければ「狂人」である。


「悪魔」、「狂気」とは形にならないカオス状態のエネルギーであり、それはまだ言葉によって名づけられていないもの。
構造の網の目にすくい上げられていないもの。
定義されていないもの。
闇の中にあるもの。
光に照らされていないもの。
脳に知覚されていないもの。
共同幻想」になっていない「私的幻想」。
共同体によって共通のルールとされていないもの。


光が強ければまた闇も深い。
あまりにも安全で、あまりにも明るく、あまりにも明確で、あまりにもデジタルなこの日本で。
狂気や死や病気や悪―闇は隠され。
しかし隠されてはいても、光と闇は表裏一体。
死から逃れられないように、闇を消すことはできない。


隠されたものは、極端な形で表面に表れる。
死体の写真が馬鹿売れした時点で、予兆はあった。
エログロな裏情報。
しかしメディアを通した情報は、加工されすぎている。
そこには臭いがない。
リアルなざらざらした手触りがない。
重要な情報が抜け落ちている。


世界の内圧が高まっている。
ストレスが溜まっている。
吹き出物のように、カオスが表面に噴き出す。
少年犯罪。
新興宗教
カタストロフィの予感。
限定された世界に溜まった澱は排出されなければいけない。
淀んだ空気は入替えなければいけない。
しかし―
戦争や大地震―血の犠牲なしにそれはできないのか?
いじめや差別―「外部」を体現する者としての生贄を出すことなくそれはできないのか?


世界は閉じられていてはいけない。
闇やカオスは恐怖だ。
しかし、それを避け、壁を作ってその中に逃げ込もうとしても、閉じられた世界は腐敗し、いずれは崩壊する。
外部との交易をしなければいけない。
常に世界を広げなければいけない。
しかし、安全な場所にいて、仮想現実の中で世界をデジタル情報に構築しなおしていく、その作業はどこまで有効か。
フォーマットは共通化し、情報の流れは増大し、2次曲線を描いてリンクし増大していくのか。
バーチャルな世界はこのまま拡大しつづけていけるのか。
電脳社会のユートピアに向けて、世界は激しく動いているけれど。


しかし2次的な情報は、人を通すとすぐに歪んでいき、最初の意図は見えなくなる。
データベースを最新の状態に保つには膨大なエネルギーを必要とする。
そんな現実を考えた時、我々は膨大な無駄を作り出しているのかもしれないという気にもなる。
歪んだ鏡と打ち捨てられた廃墟のような仮想現実社会の姿。


直接、危険を冒して自らがカオスに身をさらし、そこから戻ってこなければいけない。
ぬるま湯から出て、リアルな現実に触れなくてはいけない。
仮想現実の中では切り捨てられる、ノイズを含んだ生の情報に身を浸さなくてはいけない。


芸術家とは世界に穴を開け、新鮮な空気を入れる者。
圧倒的な情報を、閉じられた世界にもたらす者。
そのために闇を自らのうちに背負う者。
世界の境界線上に生きる者。
行き詰まった世界に生気を取り戻す者。


ランボーは詩人から商社マンになった。
精神の交易者から物質の交易者へ。
職業は変わっても、その立つ場所は変わらなかった。


生は危機に面した時に活気づく。
生は死に直面した時に輝く。
闇があって光が際立つように。
その輝きを留めおくものが芸術家だ。