小沢健二 インタビューの世界(1)

以下は、フリッパーズ・ギターのシングル「グルーヴ・チューブ」の、自分達で書いたライナーノーツである。(1991年4月号の「ロッキンオンJAPAN」より。)

「男女8人ティラミス食って石純カットでユーノス乗ってサンリオ・ランドに行く」(ポパイ)

「獣姦趣味者と老女裸体写真コレクターの異色デュオ。これグー」(宝島)

「このフリッパーズギターの史上最もパワフルなシングルは、激しく腰をシェイクするB'zのリズム。布袋を思わせるハードエッジなギター・サウンド。時にクールで、時には熱くハートを締めつけるヴォーカルは氷室のようだ。巷で噂のマンチェスターサウンドの取り入れ方は、日本一のマンチェスターゴーバンズか電気グル―ヴか。どこかコミカルで裏がありそうな歌詞はユニコーンの『命果てるまで』と肩を並べ、それでいて骨太なところが往年のパンタを思わせるが、ロックという型におさまりきらないザ・ブームに通じ、大江千里のような隣のお兄さん的素顔がのぞく。BUCK‐TICKゆずりの退廃美とも相まって、KANの『愛は勝つ』に勝るとも劣らない、『頑張れよ、寂しいのはお前だけじゃないんだぞ!』と万人にアピールする優しさをよりリアルにかもし出す1曲となっており、宇都宮美穂さえバンド・ブームに巻き込むことでしょう。買って。(フリッパーズ・ギター)」(ワッツ・イン)

 フリッパーズ・ギターのセンスは、こんなだったのだ。分からない奴にはタチの悪いシャレで返す。こんなだったから、僕も彼らの音楽を聴いてみたわけであるが。

 時代の空気を感じる。情報を皮肉にサンプリングして撒き散らす感覚は「ヘッド博士の世界塔」にそのまま通じる。
 1991年。あの時代、あらゆる情報が溢れていて、でも重要なことや深刻なことなんて何もなくて、湾岸戦争だってテレビゲーム以上のリアリティは持っていないように見えた。
 軽く、明るく、ノリよくいることが正しくて、真剣にやることはダサいとされ、知識を集めるものは「オタク」と呼ばれて排除された。(フリッパーズは「オタク」と呼ばれていたのだ。)

 しかし、あるがままの自分ではいられず、何かを表現したり、何かを吸収したいと思ってしまったら、真剣になり、オタクにもならざるを得ない。だから、それがカッコ悪いとされる風潮の中で、自分を守っていくためには、自分を常に相対化し続けなければいけなかった。
 あらゆるものから距離をおくこと。
 真剣になっている自分さえも客観視すること。
「全部分かってる。敢えてやってるだけだ。」って言えるように。

 だけどそれは表現者にとっては大きな二律背反だから、この当時のフリッパーズのインタビューには苛立ちが見えるし、音楽には意外な刺があり、パンクになっている。

 同じ頃の「JAPAN」の編集者(中本浩ニ氏)の文章。
「こいつらは本当にタチが悪い。とにかく議論好きの青臭い大学生タイプの人間だからして、相手を論破することに命をかけてる。その上、すぐ他人を値踏みしたがる。~インタヴュー中の彼らはそれはそれはもう憎たらしい顔つきで、『憎まれ口』を見事に体現している。恐るべき凶悪コンビと言えよう。」

 小沢健二は後にどんどんストレートな人になっていったが、当初はこのようなひねくれ者だったのだ。
 そして同じ文章より、当時の彼らのスタンス。
「例えば、『ラテンでレッツ・ラブ』『青春はいちどだけ』などの曲名をシャレとして受け取るかどうかがフリッパーズを理解するためのポイント」

 でも、中本氏は最後をこう締めくくっている。
「相変わらず怒りや反抗を歌うロックの『現実』から遠く離れた、限りなく虚構に近いフリッパーズの甘く美しい世界は、間違いなく彼らの『意志』なのだと思う。」

 敢えてこう書かなくてはいけないほど、当時彼らの真意は隠されていた。彼らは巧妙に真意を隠していた。自分を守るために。クールに、かっこよくあるために。
 彼ら、特に小沢健二が言いたかったことは、彼が後に発表するアルバムを聴くまでは分からなかった。
 後の小沢健二フリッパーズ時代を封印したのも分かる気がする。ストレートに自分を出しても安定していられる「大人」になってみれば、過去の過ちは恥ずかしくなるものなのだ。

 

○『ロッキング・オン』1991年10月(ライブレポート)

「この日最高の投げ言葉はせーの、で2、3人が発したと思われる「フリッパーズ・ギター!!」というやつ。私はしばらく笑いがおさまらなくなってしまった。フリッパーズ・ギターフリッパーズ・ギターと言うとは。なんと批評性の高い客であろうか。ギグ終了後、ステージには彼女達の投げつけたコンドームが飛散しているという。
 たしか、ついこの間までフリッパーズ・ギターのコンサートに来ていたのは、曲が終わると暖かくパチパチしてあげる人達だった。それがいつの間にこんな頭が良くてタチが悪い客になっているのだ。」
フリッパーズは先制攻撃マシーンである。よくわからんが安心して話しかけようとしても、まず一言「えっ、そんな奴いたっけ?」としらばくれてからでないと会話にならないのだ。これはなんだろうか。ムチャしたたかに育たざるをえなかった東京のガキのケンセー合戦に非常に似ていると、純朴な私は思う。しかし、そうした構造の中でしか本音を言えないという部分は、今、表現が抱えている最大の問題であり、そこをクリアーせんとしている点において彼らはリードしている。」(増井修氏)

 

○『ロッキング・オン』1991年8月(「ドクターヘッド」ディスクレビュー)

ビーチ・ボーイズの“ゴッド・オンリー・ノウズ”の美しいイントロのサンプリングから“本当のことを知りたくて嘘っぱちの中、旅に出る……”と始まる、全編サンプリングによるフリッパーズ3作目にしての問題作である。次から次へと流れていくサンプリングされたポップス、ロックのフレーズ(嘘っぱち)の間を泳ぐここでのフリッパーズの2人は、音楽オタクであるが故に痛いほど知っている“音楽の空しさ”を“音楽”によって表現するという倒錯を行っている。20才を越したばかりの2人にとって、これはあまりに的確なリアルタイムのロック観である。何も信じられない、何も共有できない、何も新しくない、全ては終わった――そういう今のロック意識を“共有”しようとしているところがあまりにも誠実だ。」(山崎洋一郎氏)