「ねじまき鳥クロニクル」村上春樹

ねじまき鳥クロニクル村上春樹を再読した。


恐ろしくディープで陰鬱な物語で、良くも悪くも影響を受ける。
いつもの「死と再生」というテーマが繰り返されているが、他の作品と比べてもかなり深い。そして不快…。


「僕」には仕事もなく、猫もいなくなり、2人きりで世界を作り上げていた妻までがいなくなる。誰も自分を必要としていないような、徹底的な孤独。
深い孤独の中、現実の底は抜けて、現実と夢の狭間にあるような「向こう側の世界」に行く。孤独の中では、現実はとても危ういのだ。
そして、巨大な運命に操られるようにして、精神的な冒険をし(現実的にはあんまりなにもせず)、とても深い暗闇に降りて行き、ついに「絶対的な悪」と戦う…。


(以下、内容)
「井戸」というのは自分の心のメタファーだが、本当に枯れた井戸の底に降りさえする。
客観的には、馬鹿である。
客観的には、「失業中で妻にも逃げられた男が、一人で問題をややこしくした挙句、変わった女子高生や妙な占い師やノモンハンで従軍した老人と知り合いになったり、井戸に降りたり、妖しげなカウンセラーをしたりしつつ、義理の兄を殺す話」である。馬鹿である。


しかし、主観的にはまったく違う。そして読者も主人公の主観の方に必然性を感じるようになる。
主人公は、大きな運命に導かれるようにして、否応なしに精神的冒険に巻き込まれる。
恐らく、運命は全てをなくした人の下に現れ、役割を果たすことを強いるのだ。
妻は「向こう側」の世界にいる。そこから、電話を通して助けを求める。
その場所との通路は、消えたり現れたりする。電話の声だって、簡単に変わってしまう。
そこはホテルとして表現されるが、夢と現実の狭間のような、呪術的な世界である。そこは悪や暴力に満ちた世界だ。
「僕」はなんとかしてそこにつながるために、この現実でのかすかな偶然性を手がかりとして先に進んで行く。消えそうな運命の糸を辿って行く。
「生」とは、本当は非連続的なものだ。瞬間ごとに途切れていて、次の瞬間に何が起こるか、まったく予想もできないものなのだ。
だから、先に進むには、運命に身を委ね、偶然のサインを見つけ出すしかない。
そしてついに向こう側の世界に達し、圧倒的な悪を倒して妻をこの世界に連れ戻す。


ストーリーは完全に「異界もの」で、「冒険をして異界に行って悪を倒しお姫様を助け出す」という、神話にもあるような、物語の王道である。とてもそうは思えないところがすごいけれども。


村上春樹の主人公はいつも孤独だけれども、この物語の孤独の徹底度合いは深く、もう少しで理性を失い、向こう側にとりこまれてしまいそうなほど、危ういところを進んでいる。
だから、読んでいても、とても暗澹たる気持ちになる。
他者とのつながりを完全に欠いた孤独の中、現実の底は割れやすくなる。


それでも、なんとかこの現実につながるための方法が、「ねじを巻くこと」である。
毎日決まりきったことを淡々と行うこと。
掃除をし、洗濯をし、アイロンをかけ、体を洗い、決まった距離を泳ぐ。
そして、具体的な物にこだわること。
食事の内容や、服装の名前や、音楽のタイトルにこだわること。
これらの固有名詞は村上春樹の小説のひとつの魅力になっているが、これは主人公にとっては切実な、現実とつながるための最後の武器なのだ。


呪術的な向こう側の世界を冒険して再び戻ってくるためには、バランスをとるために強力な理性と肉体が必要になる。
ねじを巻かず、固有名詞にこだわらなかったら、人は簡単に向こう側に取り込まれ、客観的には精神に変調をきたすだろう。
村上春樹の小説は、いつもこの現実と異界との間のバランスの上に成り立っているのだが、この「ねじまき鳥」はその「振れ幅」が大きく、とても深いところまで進んでいると思う。
90年代、闇はとても深かった。だから、この物語も深くならざるを得なかった。
村上春樹の小説は、闇を我々に示し、一人ひとりがそれと対峙することを求める。
それは時代の「癒し」だ。


ところで、小説の内容のせいか、やたらと沈鬱な感想になった。
(☆☆☆☆☆)

ねじまき鳥クロニクル〈第1部〉泥棒かささぎ編 (新潮文庫)