しりとりエッセイ5:「路地裏」

 
夕暮れ時の路地裏に立つ。
辺りには食事を作るにおいが漂っている。煮物のにおい、魚を焼いているにおい。
生活のにおいがする。
窓の向こうでは灯りがともり始める。
台所の窓からは、洗剤やたわしや鍋なんかの雑然としたシルエットが見え、その奥に忙しそうに動く人の影が見える。
軒を連ねた古くて汚い家々。
むき出しのガスメーター。配電盤。パイプ類。
軒先の植木鉢。壁を伝う植物の蔓。
昔から変わることのない風景。
子供たちは家に帰り始める。
豆腐屋の喇叭が物哀しく鳴り響く。
どこからかテレビの音が聞こえてくる。

 
…そんな記憶は、全くない。生まれも育ちも新興住宅街だ。
にもかかわらず、古びた路地裏には、なんだか分からない郷愁を感じていた。訳も分からず、懐かしい。
そんな時、前世はあるんじゃなかろうかとまで考えてしまう。
以前、月島に行ったときなども、路地裏に妙に心惹かれ、関係もない人の家をじろじろと眺め回していた。実に迷惑である。


しかし、最近はそんな郷愁を感じることも減った。
単に感受性が鈍っただけかもしれないが、月島なんかに行っても、路地裏の向こうに高層マンションなんかが見えると、とたんに萎えてしまう。


郷愁というのは、「場所の記憶」みたいなものに対して感じるのではないのだろうか。
その場所で長い間営まれてきた、人々の生活。息遣い、体温、気配。それらの積み重ね。歴史。
そういったものが、気配のようにぼんやりと漂っているのではないだろうか。

最近は古い町も再開発が進み、それらの気配は切り取られてしまっている。
きっと場所の記憶というのは全体的なもので、町の一部が変えられると、質が変わってしまうようなものなのだ。
街の中にぽつんと取り残された古い建物には、あまり郷愁を感じない。


ところが最近、久々に強い郷愁を感じるものがあった。
「廃墟」の写真集だ。しかもこれが割と流行っているらしい。

廃墟には歴史が積み重なっている。
そして記憶は手付かずのまま封印されている。
それら廃墟の写真を見ると、心がざわつく。妙に惹かれる。懐かしい。


こんな風に感じるのは、自分だけじゃないのだろう。だからこそ売れているのだろう。
全てが新しくなり、古いものが捨てられようとしている中で、人々は新しい場所に向かう「地理」よりも、「歴史」を求めているような気がする。