言葉とコミュニケーション

携帯やメールでやり取りする膨大な言葉。
どこまでも増えつづける。
それは一度に交わす情報量が少ないからだ。
人はコミュニケーションを必要とする。
エネルギーの、情報の交換をしなくては、開放系の我々は安定していられない。
外部から取り入れ、外部に捨てる(捨てるというのは自分にとっての価値観を含んだ言葉だ)、つまりは外部と情報のやり取りをすることによって、我々は安定して生きていくことができる。
コミュニケーションは必要不可欠だ。


しかし、非言語コミュニケーションに比べて言語によるコミュニケーションは非常に限定的だ。
「おやすみ(-_-)」(←?)なんて顔文字をつけたって、そこに込めることのできる情報量は極めてわずかなものだ。
それはそうで、短い台詞だって言い方や表情や目線やしぐさや文脈によって表現の仕方は数百万通り、数億通り、それはもう無限にある。
そうでなければ俳優は要らない訳で。


直接向き合って生の感情を孕んだ言葉をやり取りすることは、ある意味非常にしんどいことだ。
疲れるし、場合によっては傷つく。
メールや電話でのやり取りは楽だ。
しかし、楽だからといってメールばかりだと、コミュニケーションの欲求が十分に満たされない。
だから、果てしなく言葉を打ち込みつづけることになる。
完全な遠回りだ。(ちなみにこのページなどもまったくそうだ。)
携帯に文字を打ち込んでいる姿は祈っているかのようだ。
それはコミュニケーションを求める祈りだ。


日々の中で時間は加速し、それに追いつくために情報はデジタル化する。
単位当りの情報量は減り、体験に実感は得られなくなる。
だから記録しようとする。
写真に写し、言葉にし、文字にする。
データは携帯に、パソコンのハードディスクに残っている。
しかし、それでも、いやそれだからこそ、ますます実感からは遠ざかる。
スピードを求めても、活字はつるつるとして特徴がなく、記憶に残らない。


メールから会話へ。
会話から共感へ。
スピードを落としてみる。
効率の追求を止め、表面上の情報伝達の効率を落としてみる。
そして密度を高めて濃いエネルギーを交し合う。
それで、コミュニケーションの実感は十分になるのかもしれない。
「全人的な関わりを。暖かく、ユーモアを持って、分からないことは分からないままに、時間をかけて。」
それらは河合隼雄の伝えることでもある。


今は太陽の活動が弱まっている(と栗本慎一郎が以前言っていた)。
エネルギーが不足している。
だからみんなが弱くなっているのかもしれない。
濃いエネルギーには耐えられなくなっているのかもしれない。

確かに、携帯とメールによるコミュニケーションはとても楽で、スマートだ。
生のコミュニケーションはしんどい時があるし、メールはちょうど良い距離で、メールの登場で救われたことも多い。
 

だけど、言葉だけでは空回りする。
どれだけの言葉を費やしても、世界は記述しつくせないし、熱は伝わらない。(このサイトのように。)
暖かさを求めているはずなのに、熱から遠ざかってしまう。
モニターの光だけでは、いくら集めても暖かくはならない。


だけど今、そんなタイプが多いってのは、地球の環境に比べて人が増えすぎていて、エネルギーの循環を減らすべきだと、無意識のうちに感じている人が多いからかもしれない。
時代の流れなのかもしれない。
だからこそ「クール」がよしとされていて、無駄にエネルギーを消費しないような、体温低く、冬眠しているような人、状態が求められているのかもしれない。


そして、新しい時代の人たちは、クールに、情報をやりとりしなくても平気でいられるようになるのだろう。
わずかなエネルギー(情報/気)の流れを感知するような、敏感で、繊細で、上品で、弱い人たちが増えるのかもしれない。