「サイファ覚醒せよ」宮台真司・速水由紀子

共同体の結びつきは緩くなっている。
人は複数の場所に多元的に所属することができ、辛い場所からは逃げられるようになる。

筆者たちは、様々な価値観の間を、ネットも利用しながら逃げ回ればいいと言う。
共同体に根拠はない。
しかしそのことが分かってしまうと、殺人を犯す閾値が低くなってしまう。
どこまでも主観的な世界を生きることができるなら、他人の重要性は低くなる。
共同体の力が弱くなれば、タブーの力も弱くなる。
どうしたらそれを防げるのか。

世界には、論理や言葉を越えた不条理な部分がある。
人の力を超えた圧倒的な運命がある。絶対的な不平等がある。その中には「美」があり、「死」がある。
それら人間にはどうにもならない、理解不能なものを一点にまとめて概念化したものが「神」である。それは、共同体という球面にどうしても生じてしまう「皺」を一点に集めたものである。不条理で恐ろしいものが共同体の中にあってはいけない。訳の分からないものは、一箇所に集めて、外に捨てるシステムがなくてはいけない。だから、「神」とは外部への通路であり、世界の内部と外部に同時に存在するものであり、穢れを一身に背負うものだ。この機能がなければ共同体は崩壊する。
しかし、ずいぶん前から、そのような「神」は機能していない。

かつて外部への通路としての「神」の機能を果たしていたもの。
村の祠や道祖神や稲荷や天狗や河童や妖怪や怪談や神話。
怪しくも美しいもの。それらは合理的に解釈され、今は都市伝説やホラー小説・映画などで細々と機能しているのみだ。
「お金」。
外部にあるからこそ価値の尺度としての役割を果たせるもの。しかし、今お金は穢れたものでも汚いものでもない。みんなが何のやましさも感じずに求めるもので、デジタルデータのプリントアウトでしかない。
天皇」。
今は芸能人の一種だ。
学校ではいじめられっこが穢れを一身に背負い、クラスの秩序を保っていた。しかし、今はそこから逃げることができる。だれも穢れは背負わない。
行動成長時代には、未来に不条理を放り投げていた。それに気づかないふりをして走っていたのだが、早く走りすぎてその未来に追いついてしまった。そして、問題は何も解決しておらず、目標は幻想であったことが分かってしまった。
アメリカはソ連に穢れを背負わせていた。今はイラクイスラムに背負わせている。いまだにここだけは変わっていないが、イスラムも黙っていない。そして人々もさすがに気づき始めている。
 
エントロピーが増大している。カオスが身近に迫っている。皆、閉塞感を感じ、息苦しく感じている。
しかし、その中にあっても、生きていくためには秩序を維持しなくてはいけない。
今、宗教に頼らずに、合理的な思考によって倫理を作り出すことはできるのだろうか?

本来不合理である世界を理解する方法は恣意的だ。あらゆる宗教、全共闘セクトなどはどれも世界を把握する手段の一つに過ぎない。今さら新たな共同体を作り出すことに意味はない。かといって精神世界に行くのもセンスがない。
その地点に留まり悩む宮台氏と、科学哲学を根拠とした新たな「宗教」を作ろうと考える速水氏。
他人が語っているのを見ると、安易に新たな宗教、共同体を作ろうとすることにセンスのなさを感じるものだ。個人的な趣味を安易に他人に押し付けるものではないと思う。自意識過剰だ。
多分、科学哲学を根拠にしようという点はセンスがいいのだ。ただしそれは趣味の問題であって。それを他人にも押し付けようとした瞬間に、センスが悪くなる。
答えが出ない地点に留まって考え続ける宮台氏のほうがタフで、大人だと思う。