時間と脳

何度も同じことばかり書いている。
言葉と論理を超えようとばかり書いている。


きっと歳をとったせいなのだろう。
「膨大な生の情報に張り巡らされたデジタルなフレームの中でしか考えられないもどかしさ」―それは自分自身の脳の神経の繋がりの投影ではないかと思う。
脳の中で神経は一定の繋がり方をしていて、歳を経てそれはある部分だけが強固に、しかし固定的になってしまっている。
大人はなぜ同じ話ばかりするのだろうかと思っていたが、自分もそうなってきている。
A点からB点まで情報が流れる時、道筋はインターネットのようにたくさんあるはずなのに(インターネットは脳の現実世界への投影だ)、いつのまにか同じ道ばかりを通るようになる。
そしてそこは本当の道のように太くなる。
このことは一方で思考を安定させ、世界を分かりやすくし、生きやすくするのだが、一方で思考を固定化する。
そして生を退屈させる。
これが進むと変化に対応できなくなる。
だから焦りがある。同じ所ばかり回って進んでいない焦りがある。
そこを抜け出したいという衝動がある。


30歳過ぎて走り出す人が多いという。
それは内部に衝動が生まれるからだ。
それは変化への衝動だ。
変化がなく、脳の同じ所ばかりに微弱電流が流れている生活では、時間はさらさらと流れて去ってしまう。
それは川の流れと同じだ。
さらさらと流れる水は、流れているのかいないのかよく分からない。
障害物の岩が転がる急流にこそ面白い変化が生まれ、大きな落差のあるところに美しい滝が生まれる。
 

それと同じように、人は変化があることによって時間を感じるのだろうか。
いや、そもそも時間とは変化そのものなのだ。
錆びること、腐ること、壊れること、老いること、移動すること、成長すること。
生から死へ。密から疎へ。高から低へ。秩序から混沌へ。
自然の中で変化することが時間なのだろう。


だから背が伸び、日々新しいことを覚える子供時代の時間は変化に富み、1日は長く、1年は気が遠くなるような長さだった。
いや、それはわずか10年前、受験生時代だってそうだった。
1年という時間は、受験対応能力ゼロでどうにもならない人間を、受験の達人に変えることができる程の時間だった。
それが今この1年間でどれだけ成長できただろう。
ほとんど成長していなくて絶望的になる。


それは企業の流れがそうさせるのだろうか。
1年あればなんだってできると思っている新入社員に対し、会社のスタンスは「まあ1年は見習い」とかそういう感じだ。
仕事には何も産み出さないけれど必要な雑用はいくらでもある。
雑用という重石は若手社員に乗せられ、軽い足取りで全力で走っていたところに、歯止めがかけられる。
それは上が詰まっているからだ。
停滞した日本経済にそれほど大きな変化はない。
そもそも脳が固定化して変化を好まない大人も多い。
企業内にそれほど多くの変化に富んだ、なすべきことがあるわけではない。
誰もが変化を求めて激しく動いていたら、過剰に生産しすぎてしまい(物を。情報を。)、消費しきれなくなってしまう。
きっと、わざとスピードを落とす必要があるのだ。
だけどそんな流れにつき合っている必要はない。
企業の都合にあわせる必要はない。


時間を感じることは多分大切なことだ。
時間は限られている。
その流れをどれだけ太く感じられるか。
同じ長さをどれだけの密度で進めるか。
それは1つの目的だと思うのだ。
無駄なことをしている暇はない。


だから何度も同じことを言う。
シナプスを繋げていかなくてはいけない。
もっと情報を取り込み、それらを結び付けていかなくてはいけない。
変化を起こし、時間の密度を濃くしていかなくてはいけない。


…って単に暇だってことだろうか。
このご時世に贅沢なことだ。

時間とは、変化そのものである。
時間あるところに必ず変化がある。
全く変化がなければ我々は時間を感じることが出来ない。
感じることが出来ないものはないのと同じである。
…とも言えるし、感じることや考えること自体が変化である、ということもできる。


我々は外部からの刺激によって様々なことを感じている。
感覚器によって感じている。
感覚は電気の流れによって生じる。
流れは時間である。


全く変化のない状態とは何か。
時間がない状態とはいかなるものか。
成長も衰退も拡散も縮小もないもの。
それはもう「神」である。


「神という意識」はありえるのだろうか。
完全な状態。
膨張を続ける宇宙の動きをも超えたもの。
それは想像の中にしかありえないものかもしれない。


我々の記憶すらあやふやなものである。
自分を自分と認識してくれる他者の存在なしに、テレビや新聞などのメディアなしに、日記などの記録なしに、我々を我々の過去から連続した存在として認識することは難しい。


自分が自分である根拠とは何か。
過去との連続性。
一方向に流れる連続した(と思われる)時間がなかったら、我々は自己の統一を図ることも出来ないかもしれない。
時間というものがなかったら、「連続性」には意味がない。
「一貫性」には意味がない。
どちらが先でどちらが後かということには意味がない。
因果関係が意味を持たない。
成長するということがない。
ただあるのだ。
最初から終いまで。
いろいろな状態がある。
いろいろな状態があり、そのどれであってもいいのだ。


では何によってそれが定められるのか。
その時々の思いによってであろう。
意志することにより、あらゆる状態になる。
一貫性や統一性に意味がないとすれば、個人や自我にも意味がない。
区別に意味がない。
あらゆる意志には狭い意味での「自分」というものがない。
誰であってもどんな状態であっても構わない。


自我は意識の牢獄だ。
自分という区別に閉じ込められている。
自我には必ず因果応報がある。
いい時があれば悪い時もある。
それは先が見えない映画である。
時間というものが存在するこの「生」は映画である。
観られている映画である。


輪廻転生の思想も時間による大きな制約である。
過去から未来までが一本の鎖につながれているという大きな制約である。
制約があるのはゲームだからである。
制約とはルールのことで、ルールがあるのはゲームだ。
だから時間というルールに縛られたこの生はゲームであり、映画なのだ。


時間がなく、あらゆる場所で、あらゆるものに、意志によってなることができる主体があるとしたら、それは完成したものであり、完成しているからこそ、「自」の外からの承認がなくとも、過去の記憶がなくとも、ただあるだけで確固として存在していられるのだ。
先の見えない変化に富んだ我々のこの生はそれぞれが主役の壮大な1つのゲームであって、映画であって、それを観ているものがいるとしたら、時間の存在しない確固とした存在である。


ここから導き出される教訓は、自分を安定させて守りに入ることなどというのは意味のないことであり、完成することなんてのは不可能であるし、意味のないことであるから、小さくまとまったりせずに、先の見えない人生のジェットコースターを楽しみ、良い映画として楽しみ、楽しんでもらうべきだろうということだ。


手始めに、競馬でも始めるか…。