スタッフ的ということ

スタッフ的。
みんなわざと近視眼的に仕事をしているように見える。
資料の準備とか、情報の加工とか、体裁とか、文字とか形とかにこだわって。
ものすごい勢いで何かを産み出し、猛烈に進んではいるのだが、それによって何をするのかということには敢えて誰も触れないようにしているみたいだ。
漢字の書き取りは勉強じゃなく、英単語を書くことは勉強じゃなく、歴史のまとめノートを作ることも勉強じゃないのに、それだけで満足してしまう、みたいな感じだ。(もちろん、それらはただの手段であって、勉強とはそれらを「覚える」という一瞬だけのことを言う。)作業をして満足してちゃだめだろうって思う。

ではスタッフ的な仕事の目的は何だろう。
それはただひとつ、「決断」ということだけだろうと思う。
情報を頭に入れ、それらを総合的に判断して、決断を下すこと。
しかし決断は上へ上へと先送りされ、一番上にまで至ると、もはや情報量は多くなりすぎて判断不可能になっている。
そうすると結局、決断は気分やイメージでされることになる。もしくはひとつの決断もされないままに物事は進んでしまう。
それは昭和初期の日本が、決断もないままに泥沼のような戦争に突入してしまった様を思わせる。
チームは大きな推進力を持つが、それは頭脳を持たず、集団心理といったようなわけの分からない不合理なエネルギーによって動いていたりするので恐ろしい。