集団と闇 

集団は、閉じられていればいるほど、まとまっていればいるほど、生贄を必要とする。犠牲を必要とする。
光だけの集団は存在しない。どこかに影ができる。ゆがみがたまる。カオスが生じる。そして、それを引き受ける人を必要とする。逆に言えば、まとまった集団はそういう人のお陰で成り立っている。

開かれた集団であれば、カオスは外部に捨てればよい。中と外とのパイプ役やパイプ機能があれば、集団はカオスを捨てながら活動していける。
しかし、例えば小学校のクラスのような閉じられた集団では、これがいじめとして表れる。ゆがみは弱いもののところにしわ寄せが来る。しかし標的とされた生贄がいるからこそ、クラスはまとまることができる。メンバーは生贄に感謝するべきである。生贄とされたものは自分がグループの結束を高める結び目であることに誇りを持つべきである。

企業においては、この役目を「窓際族」と呼ばれる人たちが担ってくれているように思う。あるいは高齢で再就職先のないその人たちが企業内で最も弱者であるのかもしれない。だとしたら状況はどこまで行っても変わらない。しかし小学校のような悲惨さはない。(と思う。)
多分それらの人たちは、たまたま同期や身の周りに先に出世してしまった人がいたために、泥をかぶるような仕事をすることになったり、閑職に回されたりすることになったのだろう。しかし彼らもそれ以前には恐らくやる気をもって頑張っていた時期があり、同じくらいの能力もあるのだと思う。経験も積んでいる。単にちょっとタイミングが悪かったり、運がなかったりしただけなのだ。
だから、こういう人たちは、いざという時に活躍してくれたり、グループ内のバランスを取ってくれたりする。いや、彼らはそこにいるだけでグループ内の調和を保ってくれるものなのだ。それは生贄であり犠牲であり魔除けである。カオスを引き受けてくれているのだ。
だから、彼らには一様に暗い影がある。でも、本人が役割を自覚していて、どこかに誰か存在の理由を理解してくれる人がいれば、それほど不幸ではない。(と思う。)

組織論で言えば、「リーダー」という役割の他に「アウトサイダー」という役割も必要だということだ。白く光り輝くリーダーが存在するためには、同じだけの力を持ちながら闇を引き受けるアウトサイダーが必要なのだ。
大鷲のケンが存在するためには、コンドルのジョーが必要なのだ。ジョーなんかは、両親は元ギャラクターで裏切り者として殺されたという暗い過去を背負い、確か本人も不良で、その後も大怪我を追い、あげくサイボーグとして蘇った男なのだ。グループの闇を全て1人で背負っているのだ。
頼りなさげな科学忍者隊が成り立っていられるのは、強力なアウトサイダーであるジョーがいるおかげなのだ。だから健などはのほほんとヒーローをやっていられるのだ。
僕は窓際の人に心の中でそっと「ジョー」と呼びかけている。

しかし、近年の不況によって企業は余力をなくし、「ジョー」たちは次々に職場を去っている。それは仕方のないことではあるが、その影響力には気づいた方がいい。物分りの悪い人は、仕事をしていなかった人がいなくなるから固定費が減る分丸儲け?とか思っているが、集団にとっては間違いなく損失なのである。その役割は、別の誰かが肩代わりしなければいけなくなるのだ。

現実にはどうしてもカオスはたまるものであり、光だけで構成されるような理想的な少数精鋭集団は在り得ないんじゃないかと思う。もしあったとしたら、それは自分たちは正しいと思いながら外部に害をばらまく最悪な集団であろう。