書く

何度も同じことばかり書いている。
読み返すと同じだが、それでも書きたい衝動があって書くということは、頭では分かっていても、心の底から完全には解決していないからだろう。僕は疑問点を明確にし、考えを進め、理解を定着させるために書く。
僕は何度も「意識と無意識」と言い、「光と闇」と言っている。
今またそれをユングの性格分析に従って言い換えると、それは「思考と感情」の対立と言える。
人の性格は「思考、感情、感覚、直感、」(そしてそれぞれに外向型と内向型があり、計8タイプ)に分かれていて、そのうちで優位な機能がある。そしてそれに対立する機能は表に出ることなく、未発達なまま、幼稚なままで残る。
僕の優位な機能は「思考」のようだ。そして思考に対立するのは感情である。感情は僕にとって劣等機能であるらしい。だから僕にとって感情とは未分化でどろどろしていて闇の中にあるように得体が知れないものなのである。
感情の自由な発露は苦手だ。「〜が欲しい」とか「〜がしたい」とかいう欲望を露にすることは、なにか下品で恥ずかしいことのように思っていた。「〜すべき」とか「〜しなければならない」ということを「すべき」だと思っていたし、その方が楽だと思っていた。
だけどそれだけではいつか無理が来るらしい。あるいは気づかないふりをして、あるいは自分の中の深い井戸に捨て、あるいは別のことでストレス解消をしても、なくなったはずのものはいつか形を変えて表面に浮かび上がってくる。それとはいつかは対決しなくてはいけない。
村上春樹はそれらを吐き出すために29歳のときに小説を書き始めた。僕は世界の片隅でホームページを作り始めた。結果は全く別としても動機は多分同じだ。
僕が何度も書いているテーマは、思考と感情の統合、つまり人格の統合ということだったらしい。それならばひどくまっとうで正しいことだ。
自分の趣味や好きなことを書いていくと、自然にそれらのテーマは示されている。普段の生活の中に手がかりは全て示されている。しかし、それにはなかなか気づかない。無意識のうちに抑圧してしまうくせがついていて、なかなか気づかない。それは多分だれでもそうなのだろう。
目に見える現実の世界は、実はそれぞれ自分の無意識の世界が投影されているから、それら自分の人格の統一の物語は形を変えて現実の世界に現れてくる。二元論が一般的なのは、無意識の世界の二つの機能の対立が普遍的だからだ。

僕がこれだけのテキストを書くようになったのは、会社に入ってからの抑圧がたまってきたからだろう。
ほとんど人に気を使わずに使わせる方ではあるが、それでも気を使うところは使っているのであって、例えば無用な誤解を招く「毒」は吐かないようになった。
もっとも僕が毒を吐く場合、それはほぼ間違いなく自分では冗談のつもりであって、それは、「普通ここでこんなことは言わないだろう」という前提のもとに敢えて平然と毒を吐くことが面白いという、説明すると全く面白くもないことを面白がってやっていたわけであるが、「普通ここでこんなことは言わないだろうという前提のもとに敢えて平然と」という部分が全く伝わっていない場合や、そういう人情の機微が全く分からない体育会系な人が多いことに気づき、そうしたらただの「毒を吐く人」じゃん?と気づいて、それ以来やめたのだった。
別段、何かに対して「すごいね。」と反応しても「最悪。」と反応しても、自分の中では全く同じことだったので、それでも別に構わないのだった。全てのリアクションにひねりを加える必要はないのだった。
・・・と思っていたんだが、見えないところでストレスは溜まっていたらしい。少なくとも、ひねった会話が通用している「場」においては、言葉と意味の結びつきが流動的になっているから、それはストレスの解消になる。
きっとあんまり抑圧しない方が良いのだ。ガンジーは外では「非暴力非服従」を高らかに宣言しながら、家では家族を虐待していたというショッキングな挿話もある。理想的な人格者が、実はどんな性癖を持っているかなんて分からないのだ。
頭を通して判断したり、どうあるべきかなんてことを考えず、やりたいようにやり、言いたいことを言えばいいのだ。価値観にこだわったり、理想的な姿にこだわったりすると、そんなものは脳が考えたことだから、どこかに無理がたまって、いつか爆発するのだ。
こんな風に。