テロ 

街はアメリカのテロ事件の話でもちきりだった。
そんな話になんとなく加わりながら、つくづく、人は情報を手に入れて交換することが好きなのだなあと思っていた。
自分の中を情報が通っていくと、参加している感覚、つながっている感覚を感じられる。
しかし、一方であんまり意味がないなあと思ったりもする。そんなことを思っているのは、あるいは僕が情報弱者であるからかもしれないけれど。
情報強者とは、例えば短い期間にテレビや新聞から適切な情報を手に入れる能力を持った人。それは理解力、情報整理能力、記憶力などによる。そして、人と交換して、情報を増やしていく能力を持った人。それはコミュニケーション能力。
事件が起こると、そういった力のことを感じる。なるほどなあと思う。でも僕は細かい事実を知ることにはあんまり興味がない。
多分みんなが細かい事実を知りたがるのは、自分の理解を超えた不安や恐怖などのもやもやした感情を、映像や数字などの具体的なものに置き換えることによって理解し、安心しようとする試みなんだろうなあと思ったりする。でもそんなことじゃあ本質的なことは分からないだろうなあと思ったりする。
しかし、そんなことを言い出しても相当な勢いで場が盛り下がりそうなので黙っている。そして、参加したり、飽きて場を離れたりしている。

などと他人事のように自分のことばかり語っているが、事件自体に無関心なわけではない。むしろ、それぞれの立場に身を置き、共鳴すると、圧倒的な悲しみや憤りや疑問や不条理な感情に押しつぶされそうになる。
被害にあった人達のそれぞれに人生があり、それぞれに家族や友人がいて、それぞれに大きな悲しみをもたらす。その感情は、圧倒的過ぎて言葉にならない。言葉にしてしまったら、自分の感情とは全く別の、表面的なことになってしまうような気がする。だからあんまり言葉は口にしない。言葉にはできない。
でもそれでいいと思っている。不可解なことは、数字や細かい事実に置き換えて理解した気になるより、不可解なまま抱えておきたいと思う。その方が誠実な態度じゃないかと思う。
そしていつか別のレベルで全身的な理解をしたい。そしてそれを別の形であっても伝えることができるようになりたいと思う。