時間と充実感

慣れと充実感は反比例します。
(慣れるほどに、日々は当たり前になり、充実感は減少する。)
慣れと時間の感覚も反比例します。
(慣れるほどに、時間は流れるようにあっという間に過ぎていく。)

以下はメモです。
案の定、忙しくなってくると言いたいことは増えるのに文章になりません。

新鮮な体験では、時間は長く感じ、充実感を感じる。
充実感を感じる条件は、時間をかけることか。
子供の頃はあれほど長かった日々が、次第に速く過ぎ去っていくのは、「モモ」の「時間泥棒」のせいではなくて、いろいろなことに慣れていったからだろう。(コリン・ウィルソン至高体験」的)
自我=意識は、新たな体験を受け持ち、慣れるとそれを半無意識の領域に受け渡す。車の運転や楽器やスポーツや通勤通学まで、最初は全て意識しながら行っていたことが、半自動的に行われるようになる。それは楽になり、活動の領域を広げられることではあるが、同時に、充実感はなくなり、時間の感覚もなくなる。
領域を広げ続けないと、日々は楽すぎて倦怠しか残らない。
時間を感じるのは「意識=自我」。
時間を感じることによって充実感を感じるのも「意識=自我」。
通信や移動手段の高速化を人は求め続けるが、その結果、人が感じられる充実感やカタルシスといったものは反比例して減少する。
東京・大阪間の移動は、江戸時代には自分の財産と存在の仕方をかけた人生のイベントだったが、今や日帰り出張になった。だったらテレビ会議でも良くなってくる。
高速化が進んで全てが手段になると、残るのは「ただある自分」だけになり、それがしんどくなる。
脳に快感を感じさせるには、領域を広げつづけ、負荷をかけつづけて、覚醒させていくことか。
全ての快楽はすぐにインフレに陥る。
慣れて飽きる。
よりハードに、より極端に。
しかしそれには限界がある。肉体の、想像力の、限界。
逆に、脳を麻痺させる。
怠惰と夢。
ハードな日常の果ての麻痺もある。
肉体の酷使による、あるいは事務作業による脳の酷使による。
もしくは、自ら枠を設定して、ストイックになる。
敢えて我慢する。
とっておく。
敢えて歩く。
山に登る。
いずれにしてもハードルの設定とそのクリア。
自分のデザインの仕方次第といったところ。

もはや「筆談」の体裁をなしておりません。