枠組みと趣味

世界には、枠組みがあります。以前まとめて「A」と書いたものです。
「物語、制度、ゲーム、権力、フィクション、約束事、社会、共同幻想、宗教、言葉、規範、道徳、歴史…」、追加して、「自我、理性、因果律、線形システム」など。
ここから逃れるための試みが以下のようなものです。

・ギャンブル・ゲーム・スポーツ・笑い・音楽・祭り・酒・ドラッグ・革命…

どれも、言葉や理性を超えて、カオス的な領域へと抜け出る試みです。これを、敢えて「B」的なものとまとめてしまいます。(本当はそうやって二元論にしてしまうところから間違いが生じてしまうような気もしますが、言葉にする以上、二元論は避けられません。多分。)
「非言語、無意識、カオス、シンクロニシティ、夢、自動書記、確率、非因果律、全体性…」などがその特徴でしょう。
野球選手が異様にゲンを担いだり、競馬をやっている人が異様に「血統」や「シグナル」にこだわったり、「当る」宝くじ売り場に行列ができたりするのは、非常に象徴的です。
他人から見れば「妙」ですが、当人にとっては、意外と真剣なのでしょう。
枠組みを外れた、流動的なカオス状の世界に生きる人にとっては、古代中国や中世ヨーロッパ的な「非合理」な法則を持った世界観が、未だに生きているのです。
シンクロニシティの起こる呪術的で流動的な世界では、有楽町で並んだり、毎日同じパンツをはいたり、毎日プリンを食べることが、勝利につながるのです。それは、昔の雨乞いや生贄と全く同じ原理なのです。

中世の物理学者たちが信じた、宇宙を記述するシンプルな法則は、宇宙全体の法則なのではなく、人間のサイズでの、限られた範囲内での法則です。臨界点を越えれば、すぐにカオス的な状況が広がります。

これらには、一般的に「趣味」とされるものを多く含みます。
趣味とは硬直した日常の枠組みを超えようとする試みなのでしょう。
僕ですか?僕の趣味はドラッグと革命です。嘘です。寝ることです。
夢の世界もまた言葉と理性の枠組みを抜けたB的な世界そのものであり、人は眠らずには生きていけないことは、言葉や理性など「A」的なものだけでは生きていけないことと対応していて、だから「ラークサイド・オブ・ザ・ムーン」なのです。

そんなわけで、どうやら僕は一貫して反権力、反体制(反A)の、パンク、さすらいのギャンブラーで、「神秘主義者・ニューサイエンティスト」であったようです。
印度ではそのことに気づいただけで、きっと、ずっとそうだったのでしょう。
(それが何で法学部出身だって話もあるが、法律こそ流動的なもので、理屈の後づけでしかないってことが分かったってこともある。)
「破壊と創造」。
「破壊と創造は、笑いと想像によってもたらされる」
今思いつきましたが、言い当てていて名言です。そして駄洒落です。

A的なものの復権を求めているのであれば、B的なものは必要ではない。
しかし、A的なものは、そもそもはB的な場所から生まれてくる。
本来、AとBとは切り離された別々のものではなく、井戸と地下水脈のように、つながった一続きの同じ物である。
破壊と創造は表裏一体である。

…ほらね。
気づかなかったなあ、こんなにも神秘主義者だったなんて。
今度から趣味は「錬金術」にしよう。
ハンズで売ってるかなあ?初心者用のセット。


…つまり、ドラッグは多くの手段のうちの一つであるので、別の手段でもいいのではないか、ということです。
革命とかね。<無理

枠組みを維持する立場である「権力」は、それを破壊するもの(酒、ドラッグ、新興宗教、ギャンブル、SEX、祭…)を、禁止あるいは管理しようとするものであると。
合法的に枠組みを突き動かそうとするなら、ランナーズハイになるとか、音楽をやるとか、笑いを作るとか、寝るとかするのが良いです。

僕もこんなことばっか言ってないで、「作る方」のことに熱中したいとは常々思っているのです。もう、「見ること」はいいことにして、「参加すること」に熱中したいと。
無理かなあ。